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文化史本好きが、「文化史系本のガイド」を目指します。美術、世界史と絡んだ様々な文化史関連本をご紹介します。

馬から下りている人物の絵(ジョシュア・レノルズの『ジョージ・K・H・クースメイカー大尉』とヴァン・ダイクの『狩場のチャールズ1世』)

『ジョージ・K・H・クースメイカー大尉』 1782年 ジョシュア・レノルズ

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『ジョージ・K・H・クースメイカー大尉』 1782年 ジョシュア・レノルズ

 

イングランド出身の画家で、ロイヤル・アカデミーの初代会長であるジョシュア・レノルズ(レイノルズとも表記、Sir Joshua Reynolds, 1723年7月16日 - 1792年2月23日)の作品です。

レノルズは、ロココ期らしい、優美な人物画で知られています。

この肖像画は『NHK日曜美術館 名画への旅 13 豊かなるフランドル 17世紀Ⅲ』(P51)で、『カウスメイカー大佐』(Colonel George Cousmaker)として紹介されています。

 

所有しているメトロポリタン美術館の解説では「クースメイカー」氏は「大尉」となっています。

『ジョージ・K・H・クースメイカ大尉 (1759–1801年)』

Captain George K. H. Coussmaker (1759–1801) 

クースメイカーは1776年に、近衛歩兵第一連隊の将校階級最下位であるエンスン及び中尉の任務につきました。その後中佐に昇進しましたが、戦地勤務のないまま1795年に除隊しました。レイノルズの記録には、1782年にこの若い男性に21回モデルになってもらい、おそらく8度くらい彼の馬を描いたことが記載されています。日記作家のファニー・バーニーは、クースメイカーは内気で寡黙ながら礼儀正しい男性だと記しています。この肖像画は、レイノルズの最も優れた自由でしなやかな作風を反映しており、助手の手は入っていないとされています。 

『ジョージ・K・H・クースメイカー大尉』(メトロポリタン美術館の解説)

  

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『狩場のチャールズ1世』 1635年  アンソニー・ヴァン・ダイク

下の絵はイングランド王チャールズ1世を描いたヴァン・ダイクの傑作ですが、現在はルーヴル美術館に在ります。

「あら、イングランド王の肖像画がなぜフランスの美術館に?」と思った方、ハイ(^^)vどうも有難うございます。

 

『狩場のチャールズ1世』 1635年頃 アントニー・ヴァン・ダイク ルーヴル美術館蔵

『狩場のチャールズ1世』 1635年頃 アンソニー・ヴァン・ダイク ルーヴル美術館

 

振り向いてこちらを見ているのは、チャールズ1世(Charles I, 1600年11月19日 - 1649年1月30日)。イングランド王であり、スコットランド王です。 

この絵は一時、フランス国王ルイ15の寵姫・デュ・バリー夫人の所有でした。

 

この絵がルーヴル美術館にあるのは、クロムウェル政権による処分の結果ではなく、描かれてすぐ王からフランスに送られたためである(王妃ヘンリエッタ・マライアの母マリー・ド・メディシスへの贈り物という説もある)。その後著名な収集家クロザの手を経て、ルイ15世によって買い上げられ、その愛人デュ・バリー夫人に贈られた。

(『NHK日曜美術館 名画への旅 13 豊かなるフランドル 17世紀Ⅲ』 P45)

 

目利きでもあったチャールズ1世は在位中美術品の収集に注力しましたが、彼は清教徒革命で処刑されてしまいます。

チャールズ1世のコレクションはオリヴァー・クロムウェルの政権によって国外へ売却されました。

 

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オリヴァー・クロムウェル(1599-1658)

 

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フランス国王アンリ4世妃マリー・ド・メディシス(1575-1642) ルーベンス画 妻ヘンリエッタの母

 

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チャールズ1世の妻・ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス(1609- 1669) ヴァン・ダイク画

 

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フランス国王ルイ15世寵姫・デュ・バリー夫人(1743 - 1793) ヴィジェ=ルブラン画

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王の威厳に満ちた騎馬像と異なり、腰に手を当て、くつろいだ雰囲気の『狩場のチャールズ1世』。

甲冑ではなく平服の姿ですが、高貴さ、上品さは隠せません。

描いたのは、イングランドに招聘されたネーデルラント出身のアンソニー・ヴァン・ダイクアントニーとも表記 Anthony van Dyck、1599年3月22日 - 1641年12月9日)です。

ヴァン・ダイクは、バロック期に活躍しました。

 

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『チャールズ1世三面像』 1635年 ヴァン・ダイク ロイヤルコレクション蔵

同じバロック時代の巨匠に、ローマのベルニーニがいますが、このチャールズ1世の三面像は、チャールズ1世が自分の胸像を依頼した時にヴァン・ダイクによって描かれたものです。

この「見本」はローマに送られ、

 

1637年完成した胸像は王を熱狂させたが、のちに火災で焼失し現在は復刻しか残っていない。

(『NHK日曜美術館 名画への旅 13 豊かなるフランドル 17世紀Ⅲ』 P43)

 

ベルニーニによる胸像、見てみたかったですね。

 

ベルニーニに関連する記事

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馬上のチャールズ1世

『馬上のチャールズ1世』 1633年 ヴァン・ダイク ロイヤル・コレクション蔵

『馬上のチャールズ1世』 1633年 ヴァン・ダイク ロイヤル・コレクション蔵

 

『馬上のチャールズ1世』の構図はルーベンスの『レルマ公騎馬像』(1603年)が元。

この絵も共和政時代に売却されて国外に流出しかけたが、王政復古の際に買い戻された。

(『NHK日曜美術館 名画への旅 13 豊かなるフランドル 17世紀Ⅲ』 P43)

 

 

『チャールズ1世騎馬像』 1638年頃 ヴァン・ダイク ナショナル・ギャラリー蔵

『チャールズ1世騎馬像』 1638年頃 ヴァン・ダイク ナショナル・ギャラリー蔵


小柄なチャールズ1世ですので、下段では馬が大きく見えます。

この絵と、『狩場のチャールズ1世』の背景はよく似ていますね。

 

右側から上部にかけて樹木が茂り、左方に見晴らしが開けているところなどまさに瓜二つだ。しかしこの類似は一見しただけでは分かりにくいかもしれない。両者の構想は根本的な次元で異なっており、その違いの方が印象を強く支配するからである。

 ナショナル・ギャラリーの絵では馬上のチャールズ1世は画面のほぼ中央に位置している。よく見るとここにも従者がいるが、その姿のごく一部しか見えず、主従の関係は見誤るべくもない。いまさらことわるまでなく王侯の肖像画としてはこれが当たり前である。

(『NHK日曜美術館 名画への旅 13 豊かなるフランドル 17世紀Ⅲ』 P45)

 

画面左下には穏やかな平原風景が広がり、『狩場のチャールズ1世』では、リラックスして、若干上の方からこちらに眼差しを向ける王。

その右側にはチャールズ1世の馬が描かれています。 

 

従者に手入れされている白馬も全身は描かれておらず、鞍(くら)の中央で画面の縁によって切断されている。この大胆な構図が実に新鮮だ。

(『NHK日曜美術館 名画への旅 13 豊かなるフランドル 17世紀Ⅲ』 P45)

 

『チャールズ1世騎馬像』では馬の方が大きく見えていますが、『狩場のチャールズ1世』の中の馬は、

 

優美な曲線をなしつつ下げられた馬の首は、王の背丈を高く見せる上でも重要な役割を演じているのだ。そして画面上方の樹葉も、王の上半身をちょうど縁取る位置に広がって、その存在を強調している。数多いヴァン・ダイクのチャールズ1世像の中でも極めつきの名画とされるゆえんである。

(『NHK日曜美術館 名画への旅 13 豊かなるフランドル 17世紀Ⅲ』 P45)

 

 

『ジョージ・K・H・クースメイカー大尉』(『カウスメイカー大佐』)の「首を弓形に伸ばした馬のポーズ」も、『狩場のチャールズ1世』から着想を得ていますが、

 

首の長さは一段と強調されている。なだらかな弧形が優美な魅力をかもし出している。

(『NHK日曜美術館 名画への旅 13 豊かなるフランドル 17世紀Ⅲ』 P51)

 

(スミマセン、私は大尉本人にしか目が行かず、馬の首の長さまで気が回っていませんでした。)

 

『狩場のチャールズ1世』の絵は後の18世紀、イギリスの肖像画に大きな影響を及ぼしたようです。

 

この世紀はスタッブズのような馬の絵の専門家が脚光を浴びるほど馬の人気が高まった時代で、また優美なヴァン・ダイクの様式が肖像画の規範とされた時代だったから、この絵から着想を得た下馬姿の肖像が多々描かれたのも容易に納得がゆく。 

(『NHK日曜美術館 名画への旅 13 豊かなるフランドル 17世紀Ⅲ』 P51)

 

『ポクリング大尉とその家族』 1769年 ジョージ・スタッブズ ワシントン、ナショナル・ギャラリー・オブ・アート蔵

『ポクリントン大尉とその家族』 1769年 ジョージ・スタッブズ ワシントン、ナショナル・ギャラリー・オブ・アート蔵

18世紀イギリスの画家、ジョージ・スタッブス(George Stubbs, 1724年8月25日 - 1806年7月10日)。馬を多く描いています。正に「馬の絵の専門家」。 

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『狩場のチャールズ1世』の発想源

「「下馬肖像画」の系譜」として、傑作『狩場のチャールズ1世』の構図の元となった絵も『NHK日曜美術館 名画への旅 13 豊かなるフランドル 17世紀Ⅲ』で紹介されています。

 

それまでに描かれていた君主たちの威厳に満ちた騎馬像ではなく、「下馬した皇族を描いた珍しい絵」がチャールズ1世の父・ジェイムズ1世の治世下で偶然にも2枚ありました。

まず、こちらの女性の絵から。

彼女はアン・オブ・デンマークイングランドジェームズ1世スコットランド王も兼ねる)の妃で、チャールズ1世の生母です。美女としても知られていますが、超浪費家としても有名です。

 

『ジェイムズ1世王妃アン』 1617年 パウル・ファン・ソーメル ハンプトン・コート宮殿蔵

『ジェイムズ1世王妃アン』 1617年 パウル・ファン・ソーメル ハンプトン・コート宮殿

画家はヴァン・ダイクの先輩に当たる、フランドル出身の宮廷画家・ソーメル。

 

 

次に、18歳で亡くなってしまった、チャールズの兄・ヘンリー・フレデリクです。

中央の少年がチャールズ1世の兄、ヘンリー・フレデリクです。

(横の少年は(第3代エセックス伯ロバート・デヴァルー。清教徒革命時の議会軍総司令官ですが、父である第2代エセックス伯ロバート・デヴァルーはエリザベス1世の寵臣であり、最期は処刑された人物です)

『皇太子ヘンリー・フレデリク』 1610年 ロバート・ピーク(父)? ロイヤルコレクション蔵

『皇太子ヘンリー・フレデリク』 1610年 ロバート・ピーク(父)? ロイヤルコレクション蔵

ヘンリー・フレデリクが下馬している理由は、

 

狩に出た皇太子ヘンリーは当時の儀礼に従って、斃(たお)した大鹿の首に刃を入れた後で、剣を鞘(さや)に収めているところである。

 傍らの廷臣が身をかがめているのは身分の違いの表明でもあるが、皇太子の体格の小ささを隠蔽(いんぺい)する配慮も加味されていたはずである。かなり立派に描かれているもの、当時のヘンリーはまだ9歳だった。この幼さではいくら王位継承者でも、堂々たる騎馬像に仕立てるのは無理というものだ。ちなみに7年後の16歳のときに描かれた騎馬像を見ても、体躯(たいく)の貧弱さは見紛(みまが)うべくもない。

 王妃アンの肖像も舞台は狩場で、王妃は猟犬をつないだ鎖を左手に握り、右手を腰に当てたいくぶん気取ったポーズで、落ち着いた眼差しをこちらに向けている。モデルが貴婦人である以上、いかに狩猟が好きでも騎馬像を描くわけにはゆかなかった。

(『NHK日曜美術館 名画への旅 13 豊かなるフランドル 17世紀Ⅲ』 P51)

 

王妃アンが馬から下りて描かれているのは、「当時の高貴な女性が両足を大きく広げて馬に跨るのにはかなり抵抗があったから」です。

勿論男性と同じように馬に跨り、狩猟を楽しむ女性もいましたが、ひとりで楽しむ分にはそれほどのスピードは必要ありません。女性たちは特別の鞍を誂え、横向きに優雅に座りました。しかし横向きの姿勢では当然不安定です。落馬事故の危険とは常に隣り合わせでした。

 

さて。

ヘンリー・フレデリク王子の背後には、馬がいます。従者もいて、お手入れされているようですね、

王妃アンのポーズにもまた目を向けてくださいませ。

腰に手を当て、こちらを見やる仕草ですね。

そして、この絵を左右反転させて見ると、樹木や馬の配置、奥に広がる風景が、『狩場のチャールズ1世』の構図によく似ている…。 

どうやらこの2枚の絵から、ヴァン・ダイクは『狩場のチャールズ1世』の着想を得ていた、ということのようです。 

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ヴァン・ダイク自画像

アンソニー・ヴァン・ダイク自画像 1620年頃~1627年頃 アルテ・ピナコテーク蔵 

アンソニー・ヴァン・ダイク自画像 1620年頃~1627年頃 アルテ・ピナコテーク蔵 

クースメイカー大尉もカッコいいですが、ヴァン・ダイク自身も二枚目でした。

デュ・バリー夫人やマリー・アントワネット肖像画を描いたヴィジェ=ルブランも美人でしたが、モデルよりキレイってさぁ(-_-メ)、てカンジです。フランスの画家・クールベも美形画家のひとりだと思います。

 

画家エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランに関連する記事

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『クースメイカー大尉』に関するおまけ記事

彼は大尉か?大佐か?

クースメイカー氏の階級が「大尉」なのか「大佐」なのか。

よくわかりませんが、絵を所有しているメトロポリタン美術館の方を信じようと思います。

メトロポリタン美術館の日本語版の説明文のなかにエンスン(Ensign)とあり、エンスンはイギリス海軍の階級のひとつだと思いますが、英語版では、

 

For this work of exceptional quality, Reynolds gave close attention to the dashing lieutenant and captain in the first regiment of Foot Guards, …

 

となっています。あれ?エンスンて単語が見当たらないのですが。

 

ともかく、lieutenant という単語だけなら「中尉」の意味、Foot Guards は「近衛(このえ)歩兵連隊」で良いかと思います。

ですので、彼の所属は「近衛(このえ)歩兵連隊」であって、「海軍」ではないと思うのですが…。もし違っていたり、詳しい方がいらしたら是非お教えください。

タイトルに「captain」と付けられていて、さらに「captain」は、(昔の英国の)陸軍と海軍ではちょっと階級の重みが違いますので、私の極小脳みそ大混乱です。

 

Captain or Colonel ? 1748年、英国で陸海軍の階級決定

日本語では上から順に、大佐、中佐、少佐、大尉、中尉、少尉、となっていますが、これは既に西欧で完成した軍隊の階級システムの翻訳だそうです。

陸軍と海軍が別々に階級を作っていた英国では、1748年に階級がはっきりと決められました。結構最近ですね。

 

陸軍と海軍が別々に階級を作っていたため、奇妙なことが起きてしまった。英和辞典を引いてみるとキャプテン captain の説明の中に「陸軍大尉、海軍大佐」などと書いてある。つまり同じキャプテンという階級なのに、陸軍と海軍とでは三階級も違うことになってしまっている。これは、後になって英国の陸海軍がそれぞれの階級が相手のどのランクと同等か、という無理なすりあわせをした結果である。

(『軍服の歴史5000年』 彩流社 P90)

 

同じ「キャプテン」という語なのに、海軍では「大佐」、陸軍では「中隊長」で「大尉」の意味でした。既に固定していたので、変更は不可能。それで同じ単語で身分違いのランクを指すようになったということです。

『軍服の歴史5000年』にはこの説明(由来)がきちんと載っていますので、ご興味があればぜひそちらをお読みください。

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大佐(colonel)の語源

アラゴン王フェルナンド(カール5世の祖父)は、パイク兵(パイクは槍の一種)、火縄銃兵、帯剣盾兵で構成される常設の歩兵部隊を導入しました。

 

アラゴン王フェルナンド2世 (1452年3月10日ー1516年6月23日)

アラゴン王フェルナンド2世 (1452年3月10日ー1516年6月23日)

 

歩兵は約1000名からなる「コルネラス」に分けられて、それぞれ「カーボ・デ・コルネラ」が指揮を執りました。

カーボ・デ・コルネラはスペイン貴族のうち、軍人として特に優秀で経験豊富な者が選ばれ、このコルネラスを元に、20年後、カール5世によってテルシオ(Tercio)(軍事編成のこと)が創設されます。

英語の「カーネル(大佐)」はこのコルネラから来ているそうです。

(参考:『戦闘技術の歴史 3 近世編』 創元社 P191) 

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「大佐」の下は「大尉」だった

官職が売買されていた時代、階級が上がれば上がるほど、官職の値段は高くなりました。

国王から託される権限は富と名声の象徴でしたが、更に、連帯の評価や地位によっても値段が決まることから、大佐には、自分の隊に適切な装備と訓練を施すことが求められました。

部隊の基本的な維持費は国から支給されましたが、不足分はすべて連帯の保有者が補填(゚д゚)!、大佐は自身の負担分を部下に押し付けることに。

大佐の下の大尉は自分の中隊の状態に責任を負います。中尉も同様の責任の貢献を期待されていましたが、その財政負担は大きく、軍歴の途上で巨額の負債を抱えたり破産に追い込まれたりする貴族もいたそうです。

当然すべての大佐が同じように責任を遂行したわけではなく、戦争が始まると、連帯によって準備にはばらつきがあることがわかりました。

兵力や装備が不足することを避けるため、ルイ14世は新たに中佐という階級を設けて、大佐が自身の責務の重大さを認識するように仕向けたそうです。

(参考:『戦闘技術の歴史 3 近世編』 創元社 P219) 

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1750年代以降、男性服に襟が登場

1700年代前半の貴族の男性ファッションでは、前のボタンを留めずに、下に着た美しい刺繍を施されたヴェストを見せていますが、

 

『牡蠣の昼食』 1735年 ジャン=フランソワ・ド・トロワ コンデ美術館蔵

『牡蠣の昼食』 1735年 ジャン=フランソワ・ド・トロワ コンデ美術館蔵

 (一番下にある画像リストのリンクをクリックしていただくと、『牡蠣の昼食』を大きいサイズで観ることができます。)

 ロココ期の男性ファッションに関連する記事

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ボタンを外せば襟が折れて裏返ってしまう、ということで、初めから上襟に折り返しをつけるテーラード・カラー・デザインが登場します。

続く1780年代頃には、貴族の乗馬用の上着も登場。(クースメイカー大尉の肖像画が描かれた時期と重なりますね。彼が着ている上着の襟など、かなり今日のスーツの襟に近いです。)

上流階級のアウトドア用ウェアとして広まったフロック(frock)という上着がありますが、それまでの前裾が長いものだと乗馬には向かないため、前だけカットし、お尻だけ長く裾を伸ばした燕尾服(テイル・コート(tailcoat))が出てきます。

乗馬の際は強い風に耐えなければならないので、今度はダブルの前合わせが。そこでボタンをきちんと留めて、防寒します。

続きまして、立てた上襟(カラー(collar))にホックを付けて閉じると、もっと防寒度アップ。

姿勢が良くなって見栄えも良い、ということで、立ち襟、詰め襟が登場し、特に軍人に好まれるようになります。

(参考:『軍服の歴史5000年』 彩流社 P58)

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主な参考図書 

  • NHK日曜美術館 名画への旅 13 豊かなるフランドル 17世紀Ⅲ』
  • 『軍服の歴史5000年』 彩流社
  • 『戦闘技術の歴史 3 近世編』 創元社

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