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文化史本好きが、「文化史系本のガイド」を目指します。美術、世界史と絡んだ様々な文化史関連本をご紹介します。

エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランによる 1778年のマリー・アントワネットの肖像画

マリー・アントワネット、1773年の肖像画

フランソワ=ユベール・ドルーエ (François-Hubert Drouais 1727年12月14日ー1775年10月21日)

ポンパドゥール夫人やデュ・バリー夫人など、宮廷人の肖像画を手掛けたフランスの画家フランソワ=ユベール・ドルーエ (1727年12月14日ー1775年10月21日)による、王太子マリー・アントワネット肖像画です。

 

1773年のマリー・アントワネット  フランソワ=ユベール・ドルーエ 

マリー・アントワネット  フランソワ=ユベール・ドルーエによる1773年の肖像画   コンデ美術館蔵

  

1769年の肖像画は若く(当時14歳)、瑞々しい印象でした。

ところが、ドルーエによるこの肖像画は何だか少し印象が違いますよね。

 

 画家デュクルーに関連する記事

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『別冊歴史読本 マリー・アントワネットヴェルサイユ ー華麗なる宮廷に渦巻く愛と革命のドラマー 』新人物往来社 P106)のなかで、このドルーエのマリー・アントワネット肖像画について、

 

王妃の卵型の顔立ちや大きな瞳、愛らしい口もと、明るい豊かな髪などにかわりはないが、細い顔のこめかみにはピリピリと静脈が浮き出し、広すぎる額には骨の形がくっきりと見え、目の下にはくまがあってルイ15世の愛妾デュ・バリー夫人との間の怖るべき確執をはじめ、ゲルマン風の風俗とフランス風のそれとの矛盾で苦しんでいた。決して楽しいばかりではなかったマリーの状態が推察できるのである。

 

 

ルイ15世の公式寵姫デュ・バリー夫人

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デュ・バリー夫人(1743年8月19日 - 1793年12月7日) 1769年 

 

同じドルーエが描いた、女神フローラに扮したデュ・バリー夫人です。

デュクルーがウィーンで、ハプスブルク家の皇女マリー・アントワネットを描いた同じ年、ジャンヌ・ベキュ(デュ・バリー夫人)がルイ15世に引き合わされました。

国王はジャンヌを気に入りますが、公式寵姫とするには彼女の身分が低すぎます。

更に、公式寵姫になれるのは既婚女性に限られていたため、ジャンヌはデュ・バリーの弟と形ばかりの結婚をして貴族の身分を手に入れ、宮廷入りしたのです。

 

1770年代初めの、母マリア・テレジアに宛てた手紙のなかで、マリー・アントワネットはデュ・バリー夫人のことを「考えられるかぎりもっとも愚かで無礼なふしだら女」と書いています。

(参考:『マリー・アントワネットマリア・テレジア 秘密の往復書簡』 パウル・クリストフ(編) 藤川芳朗(訳) 岩波書店 P12)

確かに、お針子の私生児として生まれたジャンヌ・ベキュは、デュ・バリーという人物に囲われて娼婦まがいのことをしていました。

しかし実際の彼女というのは

 

 蓮っ葉なところはみじんもなく、非常に上品な感じの女性だった。「天使のような人」という証言さえある。ほかの女性たちに居丈高に当たることもなく、むしろ困っている人がいれば助けようとする人だった。

(『マリー・アントワネット フランス革命と対決した王妃』 安達正勝(著) 中公新書 P22)

 

ジャンヌは母親の再婚相手だった男性に可愛がられ、修道院で最初の教育を受けることができました。

また、情夫となったデュ・バリーが連れてきた客は身分のある者が多く、彼女はその中で上流階級の立ち居振る舞いを身につけていきます。

そして、ルイ15世を虜にしたのも彼女の肉体ばかりではなく、 

 

実際、貧困と猥雑な空気の中で育ったこの女性は、実に平凡な優しい性質をしており、冷酷な権謀術数や策略にはまったく縁のない素直な可愛い女に過ぎませんでした。

(『フランス革命の女たち』 池田理代子(文) 新潮社 P32)

 

しかし、「女帝」の支配する宮廷で育ったマリー・アントワネットには、フランス宮廷文化の頂点に立つ「公式寵姫」の存在が理解できませんでした。

しかも、本来マリー・アントワネットを教え導く存在である筈のルイ15世の王女たちは、異国から嫁いできたマリー・アントワネットを更にたきつけ、父の愛人であるデュ・バリー夫人と反目し合うように仕向けたのです。

宮廷では、身分が下位の者から上位の者へ話しかけてはならないという決まりがあり、その決まりを利用してマリー・アントワネットはデュ・バリー夫人を徹底的に無視します。

この頑なな態度がルイ15世の不興を買い、両国の外交問題にまで発展。

ついにマリア・テレジアから、デュ・バリー夫人に一言声をかけるように諭され、夫人に声をかけたのが1772年です。

夫人のメンツは保たれ、国王の機嫌も直りました。

肖像画が描かれた1773年はまさにこの頃でした。

ウィーンの母からは「懐妊はまだか」と急かす手紙、小言。肝心の夫との夫婦生活は未だ成就しておらず、夫は狩猟と錠前作りに夢中。母を喜ばせたくとも子作りに至らないのです。習慣の違う異国での生活やホームシック、この頃のマリー・アントワネットはさぞ大きなストレスを抱えていたことだろうと想像します。 

 

 

夫の3人の叔母たち

嫁いできた当初、母親マリア・テレジアからの便りに、「夫の叔母たち(ルイ15世の3人の王女たち。未婚)は徳の高い方々だからお友だちに」とありました。叔母さまたちと親しくなったマリー・アントワネットは彼女たちの魂胆に気付かず、悩みを打ち明けてしまいます。

 

夫の3人の叔母たちにすべてを打ち明けると、これがとんでもない結果を招く。醜い老嬢たちは「オーストリア女」を欲求不満のはけ口に利用することしか頭に無かったからで、甥の不能をしゃべりまくる一方、王太子妃と父親の愛人デュ・バリ夫人を反目させる。こうしてアントワネットは日ならずしてフランス宮廷の陰謀と中傷の渦に巻き込まれ、また母親からは厳しい注文が続くが、聞きたくないことは聞かず、するのは楽しいことだけという日々が始まる。

(『マリー・アントワネットマリア・テレジア 秘密の往復書簡』 パウル・クリストフ(編) 藤川芳朗(訳) 岩波書店 P2) 

 

※「オーストリア女」という、マリー・アントワネットを蔑むような言葉が出て来ましたが、マリー・アントワネットは父フランツ・シュテファンを通してフランス、ルイ14世の血を引いています。そのため、悪口の言葉としては本当は「ちょっと(かなり)違う」のです。 

 

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マリー・アデライード・ド・フランス

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ヴィクトワール・ド・フランス

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ソフィー・ド・フランス

 

画家ジャン・マルク・ナティエが描いた3人の叔母さまたち、の若い頃です。

さすがナティエ、叔母さまたちは皆女神のコスプレをしてもしていなくても、本物の女神様のように美しく、とても徳が高そうに見えますよね。

この時代の女性の化粧法で、頬をピンクに染めるのが流行していました。肖像画の女性たちはその化粧を施しているせいで、何となく皆同じように見えてしまいます。

 

あくまでも優雅で甘美な表現は、ロココ時代の肖像画の特徴です。王侯貴族の女性なら、写実性を曲げてでも優雅に美しく描いたのです。

(『美女たちの西洋美術史 肖像画は語る』 木村泰司(著) 光文社新書 P218)

 

ルイ15世の美貌を受け継いだアデライード王女は読書も好む才媛で、ポンパドゥール夫人亡き後、デュ・バリー夫人が登場するまで、一時宮廷を仕切っていたこともありました。

 

 

皇女時代を描いたジャン=エティエンヌ・リオタール(Jean-Étienne Liotard、1702年12月22日ー1789年6月12日)

マリア・テレジアは娘のマリー・アントワネット肖像画を希望していました。

1770年11月1日の手紙のなかで、マリー・アントワネットの陶製の胸像を送る代わりに、

 

でも、代わりにあなたの肖像画を送ってくださるものと期待しています。それもリオタールの筆になるものをぜひお願いします。リオタールはわざわざパリに参るのです。どうかあの者に十分な時間をあたえて、立派に仕上げさせてください。

(『マリー・アントワネットマリア・テレジア 秘密の往復書簡』 P20)

 

と書いています。

また、1770年12月2日にもこのように書いています。

 

私はリオタールの描いたあなたの肖像画を首を長くして待っています。でも、正装でなくてはだめです。部屋着(ネグリジェ)や殿方の服を着た姿ではいけません。あなたにふさわしい装いのあなたを、私は見たいのです。(P24)

 

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1762年 リオタール画

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1762年 リオタール画

どちらも皇女時代のマリー・アントワネットです。

スイス出身のリオタールは、イングランド、オランダ、ウィーンの各宮廷で活躍しました。

ウィーンではマリア・テレジアとフランツ・シュテファン夫妻、その子供たちの肖像画も描いていますし、フランスではアデライード王女も描いています。

下はトルコ風の装いで読書するアデライード王女です。

前述しましたが、アデライード王女は当時の王族の女性としては珍しく読書を楽しんでいました。

 

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1753年 リオタール画

 

 

エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランとの出会い

エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン(Marie Élisabeth-Louise Vigée Le Brun, 1755年4月16日ー1842年3月30日)

後に画家「ルブラン夫人」とて名を残すエリザベート=ルイーズ・ヴィジェはパリで生まれ、画家だった父から絵の手ほどきを受けました。

有名な画家たちからも多くの助言を得ましたが、そのなかでも当時の人気画家ジャン=バティスト・グルーズの影響は大きいものでした。

 

『壊れた甕』 ジャン=バティスト・グルーズ 美少女

『壊れた甕』 ジャン=バティスト・グルーズ 1771年

  

特にエリザベートが画法の上で直接の影響を受けたのは、グルーズでした。当時パリを熱狂させていたこの高名な画家の、後進におよぼした影響はいちじるしく、後に断頭台へ向かうマリー・アントワネットのスケッチや『ナポレオンの戴冠』などを描いたあのダヴィッドなどもグルーズから多くを学んだものですが、とりわけエリザベート・ヴィジェは忠実に彼の技法を継承し優美な画風を確立して、その名を次第に高めてゆきました。

 この時代の画家、特に肖像画家は、美しい絹サテンの布の光沢をいかにきめこまかく描写することができるかで評価が定まった、とさえいわれるほどですが、彼女の描く肖像画の人物の衣裳の襞(ひだ)や色あいの素晴らしさは群を抜いており、ブリオンヌ夫人、オルレアン公夫人などのみごとな肖像画によって、上流社会の人々から絶大な称賛を受けるようになりました。初めての作品展をひらいたとき、彼女はまだ19歳でしたが、すでにフランスのみならずヨーロッパの画壇で有名な存在となっていたのです。

(『フランス革命の女たち』 池田理代子(文) 新潮社 PP37-39)

 

画家グルーズ、画家ダヴィッドの『ナポレオンの戴冠』に関連する記事

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ヴィジェ=ルブランは1776年に画商のルブランと結婚し、娘をもうけますが、この結婚は彼女にとって不幸なものでした。

1776年、彼女は初めて、自分と同い年の王妃マリー・アントワネット肖像画を描くことになります。

マリア・テレジアに捧げられたこの絵は、現在もウィーンの美術史美術館にあります。

 

 1776年、ヴィジェ=ルブランは王家の肖像画家として王家建造物局に雇われ、2年後にはその腕を見込まれて王妃マリー・アントワネットの肖像を描く大役を得る。それまで満足のいく肖像画家に巡り会えずにいた王妃は、ようやく適任者を見つけることになった。ヴィジェ=ルブランが描いた肖像画は1779年に引き渡され、これを待ちわびていた母后マリア・テレジアのもとへ送られた。

ハプスブルク展 600年にわたる帝国コレクションの歴史」(2019-2020) P234

 

マリー・アントワネット 白いドレス ヴィジェ=ルブラン画 1778年

ヴィジェ=ルブラン画 1778年 美術史美術館蔵

 

白いドレスに、ピンクの薔薇。右上には夫ルイ16世の胸像が描かれています。

 

「立ち居振る舞いがとても優雅で、笑顔がとても素晴らしい」

マリー・アントワネットは同時代の人々からこのように賞賛されましたが、ハプスブルク家の特徴である「重く、ときには垂れ下がる下唇」は度々指摘されるところでもありました。

しかし肌は大変美しく、所作が全体的にとても優雅で、

 

画家のヴィジェー・ルブラン夫人は率直にこう語っている。王妃の肌は「とても透明感があるので、影をつけられず」、絵の具ではその美しさを表現しきれない、と。

(『マリー・アントワネット 上』 アントニア・フレイザー(著) 野中邦子(訳) 早川書房P268)

 

ブザンヴァール男爵の言葉によると、「頭のもたげ方にとても感じのよいところがあり、すべてがとてもエレガントだった。だからこそ、生まれつき容姿に恵まれた美女たちと肩を並べてもひけをとらず、ときには優位に立つことさえあった」。(P268)

 

1783年 白いドレスのマリー・アントワネット ヴィジェ=ルブラン画 

1783年 ヴィジェ=ルブラン画 ヴェルサイユ宮殿

 

『美術品でたどるマリー・アントワネットの生涯中野京子(著) NHK出版新書)では、1783年のこの絵の解説があります。ここでは一部をご紹介します。

 

若々しい王妃の顔は、7年前の肖像をもとにしているため。王妃も若いが、画家の絵筆も初々しい。いくらか美化された容貌表現。(P60)

 


 

胸像に見られるマリー・アントワネットの顔かたち

絵画ならば、控えめに、目立たないように描かれる「身体上の欠点」ですが、彫刻の場合はかなり実物に近く写し取られることが多いものです。

 

王太子妃マリー・アントワネットの胸像 ジャン=バティスト・ルモワーヌ作 1771年頃

王太子マリー・アントワネット ジャン=バティスト・ルモワーヌ作 1771年頃 ウィーン 美術史美術館蔵

マリー・アントワネットの胸像_ Louvois33 _ CC-BY-SA-4.0

 

…ウィーンに送られたジャン=バティスト・レモワンによる大理石の胸像は、素材の扱いにくさもあって、より本物に近い出来になっている。

(『マリー・アントワネット 上』 アントニア・フレイザー(著) 野中邦子(訳) 早川書房 P266)

 

ジャン=バティスト・ルモワーヌ(Jean-Baptiste Lemoyne 1704 – 1778)は、胸像やヴェルサイユの庭園の彫像などを手掛けた、18世紀フランスの彫刻家です。

彼の父ジャン=ルイ・ルモワーヌ(Jean-Louis Lemoyne 1665–1755)はルイ14世ルイ15世の時代に活躍した彫刻家でした。

 

1782年 セーヴル磁器製のマリー・アントワネット胸像

1782年 セーヴル磁器製 ルーヴル美術館

 

 

 

画家による自画像

革命後も肖像画家として人気を保った画家自身も、大変な美人でした。

それでは、美しさと才能と自信に溢れる自画像をどうぞ。

 

1781-1782頃  ヴィジェ=ルブラン自画像 赤いリボン キンベル美術館蔵

1781-1782頃  キンベル美術館

 

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1782年以降 ロンドン ナショナル・ギャラリー蔵

 

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1789年 ルーヴル美術館

 

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1790年 ウフィツィ美術館

 

1800年 ヴィジェ=ルブラン自画像 頭に白い布 エルミタージュ美術館蔵

1800年 エルミタージュ美術館


最後に、同時代に活躍したフランスの彫刻家オーガスティン(オーギュスタンとも表記)・パジュー(Augustin Pajou  1730ー1809)による、ヴィジェ=ルブランの胸像です。

 

ヴィジェ=ルブラン胸像 1785年 パジュー作

ヴィジェ=ルブラン 1785年 パジュー作 ルーヴル美術館

ヴィジェ=ルブランの胸像_ Thomon _ CC-BY-SA-4.0


やはり美人でしたね。

 

 

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主な参考図書

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