hanna_and_art’s blog

文化史本好きが、「文化史系本のガイド」を目指します。美術、世界史と絡んだ様々な文化史関連本をご紹介します。

フランチェスコ・アイエツの『水浴のスザンナ』とドミニク・アングルの『グランド・オダリスク』

フランチェスコ・アイエツ(Francesco Hayez 1791年2月10日ー1882年2月11日)

19世紀イタリアの画家、フランチェスコ・アイエツ。

アイエツはロマン主義の画家で、代表作のひとつに『水浴のスザンナ』があります。

『水浴のスザンナ』 

『水浴のスザンナ』 1859年 ブレラ美術館蔵

『水浴のスザンナ』 1859年 ブレラ美術館蔵

 

『水浴のスザンナ』 1850年 ナショナル・ギャラリー蔵 (ロンドン)

『水浴のスザンナ』 1850年 ナショナル・ギャラリー蔵 (ロンドン)

 

「ダニエル書」のなかで、スザンナというヘブライ人の人妻が水浴を終えたところに、2人の好色な長老たちがやってきます。そして関係を迫り、もし拒否すれば、お前が庭で青年と密会していたと告発するぞ、といって彼女を脅しました。

スザンナはこれを拒絶。彼女は逮捕され、あわや死罪に…というところを、ダニエルという青年によって救われます。老人たちの卑劣な嘘が暴かれ、最後は「美徳」が勝つ、という物語です。

 

絵に描かれるときは大抵このように「好色爺さん」と一緒になっていることが多いのですが、アイエツの絵にはこの爺さんたちがいません。

 

『スザンナと長老たち』 アルテミジア・ジェンティレスキ 1610年頃

『スザンナと長老たち』 アルテミジア・ジェンティレスキ 1610年頃

 

女性画家アルテミジア・ジェンティレスキのスザンナは嫌悪に顔をしかめています。

『スザンナと長老たち』 グエルチーノ 1650年頃

『スザンナと長老たち』 グエルチーノ 1650年頃

  

グエルチーノの絵ではスザンナが手をあげ、老人たちの言葉を「拒絶」しています。

アイエツの絵は『スザンナ』だと言われなければ、「美しい裸婦像」と思ってしまいそうです。

 

ヴェネツィア生まれのアイエツは、1810年から1814年にかけてローマで修行中でした。

同じ頃、フランスの新古典主義の画家ドミニク・アングルもローマに留学していました。

1801年、『アキレウスのもとにやってきたアガメムノンの使者たち』で、アングルは当時の若手画家の登竜門であるローマ賞を受賞。その後数年を経て、ローマへ留学したのです。

アングルと出逢ったアイエツは彼から大きな影響を受けることになりました。

 

 

ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル(Jean-Auguste-Dominique Ingres 1780年8月29日ー1867年1月14日)

歴史画で知られるダヴィッドに師事していたアングルは1806年にイタリアを訪れ、ルネサンスの巨匠たちの作品に触れます。

師匠ダヴィッド『ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト

『ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト』 J.L.ダヴィッド 1801年

『ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト』 J.L.ダヴィッド 1801年

 

アングル『アキレウスのもとにやってきたアガメムノンの使者たち』 

『アキレウスのもとにやってきたアガメムノンの使者たち』 1801年

アキレウスのもとにやってきたアガメムノンの使者たち』 1801年

 

ルネサンスの巨匠ラファエロ『システィーナの聖母』

『システィーナの聖母』 ラファエロ 1513年ー1514年

『システィーナの聖母』 ラファエロ 1513年ー1514年

 

アングルは1820年までローマに、その後フィレンツェに移り1824年まで活動し、ラファエロミケランジェロなどを研究しました。

イタリアに着いたとき、彼は

「私はだまされていた。最初から勉強しなおさないと」

といったそうですが、本物のラファエロを目にした彼は、アカデミックな美学の基準よりも、自分の目で見たものを信じ、手本にしようとします。

(参考:(『鑑賞のための西洋美術入門』 視覚デザイン研究所 P109)

 

1824年、長らく子供を授からなかったルイ13世聖母マリアに誓いを立て、そしてついに待望の男児、後のルイ14世を授かる、という場面を表す絵『ルイ13世誓願』をサロンに出品します。この絵は大成功を収め、アングルはロマン派に対抗する新古典主義の「指導者」として迎えられました。

ルイ13世誓願』 

『ルイ13世の誓願』 1820年~1824年

ルイ13世誓願』 1820年~1824年

ja.wikipedia.org

 

1824年にはロマン主義の画家ウジェーヌ・ドラクロワが『キオス島の虐殺』を完成させ、サロンに出品していました。

 

ライバル・ドラクロワ『キオス島の虐殺』 

『キオス島の虐殺』 ドラクロワ 1824年

『キオス島の虐殺』 ドラクロワ 1824年

ja.wikipedia.org

 

アングルは、色彩よりデッサンを重視し、安定した構図を好んだ点では新古典主義と共通していました。しかし、オリエンタルな主題を好んだ点ではロマン主義に近い性質も持っていたのです。

(『鑑賞のための西洋美術入門』 視覚デザイン研究所 P107)

 

ドラクロワの特徴はダイナミックなタッチとルーベンスヴェネツィア派、イギリスの風景画家から学んだ強烈な色彩です。これはデッサンを基礎とする構図に色を重ねる新古典主義の厳密な描き方とは対照的なものです。(P114)

 

 

 

『グランド・オダリスク』(「横たわるオダリスク」)

『グランド・オダリスク』(横たわるオダリスク) 1814年 ルーヴル美術館蔵

『グランド・オダリスク』(横たわるオダリスク) 1814年 ルーヴル美術館

 

留学中のアングルがフランスに送った絵です。

まず、この美しいなだらかな曲線、そして肌のリアルな質感に目が行きますね。

次に、妙な違和感が…。

 

発表した当時、この絵は「デッサンが狂っている」と酷評されました。

解剖学的に不正確、つまり「脊椎が3つ多い」のです。

腕も長い。

また、実際にこのようなポーズを取るのは困難です。

しかし、アングルは、

 

正確な描写よりも、自身の美意識を優先し、女性の身体の丸みを強調するために、モデルの背中を実際よりも長く描いていたのだった。

(『誰も知らない「名画の見方」』 高階秀爾(著) 小学館101ビジュアル文庫 P122)

 

新古典主義の規範に縛られるのではなく、自分の信じる理想の美を追求したのです。

ルーヴル美術館のこの絵に対する解説はこちら

 

 

アイエツがアングルと出逢った頃、アングルはこの『グランド・オダリスク』を製作中でした。

『誘う絵』で挙げているアイエツの『水浴のスザンナ』(1850年)について、著者・平松洋氏は、

 

本作も全く同じく、背中を向けて座り、振り向いて鑑賞者と目を合わせています。つまりアイエツは、後宮(ハレム)に仕える愛妾のポーズをスザンナに転用していたわけで、多分、当初から誘惑者としてのスザンナを描こうとしていたのかもしれません。 

(『誘う絵』 平松洋(著) ビジュアルだいわ文庫 P226)

 

アングルの影響を受けた画家はたくさんいますが、アイエツもそのひとり。

以下は彼の『オダリスク』です。

 

『横たわるオダリスク』 1839年 アイエツ

『横たわるオダリスク』 1839年

 

『本を読むオダリスク』 1866年 カルロッタ邸、トレメッツォ

『本を読むオダリスク』 1866年 カルロッタ邸、トレメッツォ

 

『オダリスク』 1867年 ブレラ美術館蔵

オダリスク』 1867年 ブレラ美術館蔵

 

 

フランチェスコ・アイエツ、イタリア統一運動に関連する記事

hanna-and-art.hatenablog.com

 

 

「ハンナとゲミュートリッヒカイト」内の記事

hanna-gemutlichkeit.hatenablog.com

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主な参考図書

  • 『鑑賞のための西洋美術入門』 視覚デザイン研究所
  • 『誰も知らない「名画の見方」』 高階秀爾(著) 小学館101ビジュアル文庫
  • 『誘う絵』 平松洋(著) ビジュアルだいわ文庫 

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