hanna_and_art’s blog

文化史本好きが、「文化史系本のガイド」を目指します。美術、世界史と絡んだ様々な文化史関連本をご紹介します。

J.E.ミレーの『オフィーリア』が与えた影響、J.W.ウォーターハウス、1855年パリ万国博

ミレーの『オフィーリア』

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『オフィーリア』 ジョン・エヴァレット・ミレー 1851年頃 テート・ブリテン

 

顔の横に、首の回りに、彼女自身を飾るように花が水面に浮かんでいます。

バラは“若さ、美貌”を、
忘れな草は“思い出”を、
ひな菊は”純潔”を、
パンジーは“叶わぬ恋”を、
ケシは“死”を、
スミレは“誠実、早死”を

オフィーリアに相応しい花言葉が散りばめられています。 

 

萌え出た草の新鮮な緑と春のアネモネは、オフィーリアの頭部に不気味に覆いかぶさる朽ちた柳の幹と対照的に描かれる。胸毛の赤さゆえに受難のキリストの血を象徴する、といわれるコマドリが一羽、木の枝に止まっているのは、死せる乙女に救済が約束されていることを示している。

(『水の女』 トレヴィル(発行)リブロポート(発売))

 コマドリは絵の左端の枝に止まっています。

 

オフィーリア ミレー

オフィーリア(拡大部分)_Sailko _ CC-BY-3.0

 

ハムレット』の第四幕七場で王妃は、一本の柳が鏡のような流れに垂れかかる処に、きんぽうげ、いら草、雛菊などの花環を持ったオフィーリアがやって来て、枝に花環を掛け損ねて小川に落ち、衣裳が拡がって人魚のように浮き、古い唄を口ずさみ、やがて沈んで泥にまみれて死んでしまった、と告げる。

 ミレーの絵はまさにこの通りで、水に浮く乙女、樹木や草花の細部まで入念に描かれている。彼はこの情景を求めテムズの上流に出かけ、傘をさし僅かな日陰で11時間も描く。「風に煽られて川に落ちかかり、泥まみれで沈んだオフィーリアの気持ちが通じたよ」と述懐している。ひどい目にあったのはモデルのリジー・シッダル、後のロセッティの妻で、着衣のまま浴槽につからされ、肺炎を起こしかけた。どこか能面のようなオフィーリアの表情は、リジーを見殺しにしかけて描いたわけで、その頭部のスケッチも残っている。

(『ラファエル前派と世紀末』 鳥海久義(著) 評論社 P27)

 

イギリスの画家ジョン・エヴァレット・ミレー(1829年6月8日ー1896年8月13日)のために、リジーことエリザベス・シダル (シッダルとも表記 1829年7月25日ー1862年2月11日)がモデルを務めた唯一の作品が『オフィーリア』です。

ジーはレスター・スクウェアの婦人帽子店に勤めているとき、ウォルター・ハウエル・デヴェレル(デヴァレルとも表記)にスカウトされ、デヴェレルやロセッティらのモデルとなりました。

 

結核性の病気のため、いつも青白い肌に、うっすらと赤味をさした繊細な美女であった。

(『宿命の女 愛と美のイメジャリー』 松浦暢(著) 平凡社 P189)

 

ミレーは彼女に古着屋で買ってきた衣裳を着せ、湯を張ったバスタブに浸からせました。

そしてバスタブの下からランプで湯を温めていたのですが、絵に夢中になるあまり火が消えたことに気付かず、リジーはひどい風邪を引いてしまいました。

彼女の父親はミレーの元に怒鳴り込み、治療費を払わないと裁判に訴えると言ったそうです。

 

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オフィーリア頭部・習作 バーミンガム市立美術館蔵

 

1992年の「西洋絵画のなかのシェイクスピア展(1992-93)」ではこの習作が来日しています。

 

しかしこの習作は明らかに苦痛の少ない状況で描かれている。モデルはおそらく寝椅子に横たわっているのだろう。これは1851年12月6日から1852年3月6日の間に描かれたにちがいない。すなわち、ミレーがユーエル(サリー州)のウースター・パーク・ファームで本作の背景を描き終え、そこから戻ったときから、油彩の頭部を完成したときの間である。

 

オフィーリアの死は、王妃の台詞によってのみ語られ、舞台で演じられることはありませんでした。

それだけに画家たちは自由に想像を働かせることができ、

 

画家の想像の余地はそれだけ大きいわけで、19世紀にはフランスのドラクロワを含む多くの画家が、さまざまなオフィーリアを描いた。その中でミレイの作品がとくに強烈な印象を与えるのは、オフィーリアが「川面をただよいながら、祈りの歌を口ずさんでいたという、死の迫るのも知らぬげに」(福田恆存訳)という情景を、映画的リアリズムで表現したことによる。

(『イギリス美術』 高橋裕子(著) 岩波新書 P132)

 

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『オフィーリアの死』 ドラクロワ 1853年 ルーヴル美術館

 

リチャード・レッドグレイヴ、アーサー・ヒューズの『オフィーリア』

イギリスの画家リチャード・レッドグレイヴ(レッドグリーブとも表記 Richard Redgrave 1804年4月30日ー1888年12月14日)の描くオフィーリアは、白いドレスを着て、何処か別の世界を見ているようです。

頭には花環の冠を、手にはケシ(死)などの、彼女を表す花言葉を持った花を持ち、更に左手の薬指には葉で作られた指輪をしています。

  

artuk.org

 

ヴィクトリア女王がこの絵を絶賛した2年後(1859年)、『美術ジャーナル紙』は

 

「その姿は詩人の産んだ人物の驚く具現化であり、また風物も細部への洗練された配慮をもって描かれており、昨今ならさしずめ『ラファエル前派的』とよばれることであろう」と論評した。

(「西洋絵画のなかのシェイクスピア展」) 

 

  
鳥海久義氏は 著書『ラファエル前派と世紀末』の中で、ミレーの絵には「狂気が欠けている」とし、狂女となったオフィーリアを描いたアーサー・ヒューズの作品を挙げています。

この絵もミレーの作品と同じ1852年のロイヤル・アカデミー展に出品されました。

淀んだ水面に花を散らす、頭に被った冠と青白い肌色がとても印象的です。

こちらが、その絵です。↓ 

artuk.org


『西洋美術101鑑賞ガイドブック』(三元社)では、P114・115に、ミレーとヒューズの『オフィーリア』が掲載されています。

また、『水の女』(トレヴィル(発行)リブロポート(発売))も美しい「オフィーリア」がいっぱいです。残念ながら一点一点の絵に対する説明はありませんが、美の世界に浸ることができる一冊です。 



ミレーの『オフィーリア』の影響

 

 狂気は別としてミレーの《オフィーリア》は二つの功績を生み出した。一つは花に囲まれた乙女の眩い描出法、もう一つは水死の場面である。ミレーやハントは色を濁らさず光沢を得るために苦心した。白の下地をのばし、乾かぬうちに七宝焼きのように明確な輪郭を決め、固有の色を塗りこめる。修正すれば光を失うし、乾いた時の色彩効果を計算しておかねばならない。一度に描ける範囲は限られ、完成に時間を要し大作には向いていない。しかし出来あがると下地が鏡のような役を果たし画面に眩い光沢を与えることが出来た。その色彩の明るさこそがラファエル前派を印象づけた。

 もう一つの点、オフィーリアの水死の場面というのはミレーが最初らしい。意表をついた主題はヴァリエーションを生み、アーサー王伝説のアストロットの乙女エレインや、テニスンの『シャロットの乙女』の、小舟に乗った水葬の乙女像が数多く描かれて今世紀に及ぶ。

(『ラファエル前派と世紀末』 鳥海久義(著) 評論社 P27)

 

 

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『イレイン』 ギュスターヴ・ドレ 1867年

 

赤毛のアン』で、アンが真似るのがこの女性。イレイン他、エレーン、エレインとも表記されます。

 

ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(John William Waterhouse, 1849年4月6日ー1917年2月10日) 

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『シャロットの女』 J.W.ウォーターハウス 1888年

 

こちらも中世の趣を纏った、『シャロットの女(乙女)』の絵です。

1886年に開催されたミレーの回顧展で『オフィーリア』を目にしたウォーターハウス。

その影響を受けて描かれたのが、『シャロットの女』でした。

これはウォーターハウスの代表作とも言える作品で、ミレーの『オフィーリア』と同じ、ロンドンのテート・ブリテンで観ることが出来ます。 

乙女は自分の運命に抗うようにひとり小船に乗り、恋しいランスロット卿の元に遺骸となって辿り着く、という結末を迎えます。

 

また、ウォーターハウスはその生涯の中で3枚の『オフィーリア』を描いています。

 

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『オフィーリア』 1889年

 

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『オフィーリア』 1894年

 

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『オフィーリア』 1910年

 

1886年にジョン・エヴァレット・ミレー(1829-1896年)の名作《オフィーリア》(1851~1852年)がロンドンのグローブナー・ギャラリーで展示されたのをウォーターハウスが見て、19世紀半ばにラファエル前派の画家たちが目指した絵画の革新運動の意義に遅ればせながら目覚めたといえるだろう。終生ロイヤル・アカデミーに所属した画家でありながら、「ラファエル前派第三世代」と称されるウォーターハウスの特徴がこの頃から目立ってくる。40歳代を目前に控えての新たな展開であった。

(『ウォーターハウス 夢幻絵画館』 川端康雄(監修・著) 加藤明子(著) 東京美術 P37)

 

 

1855年9月 パリ万国博覧会

ミレーは、自身の恩人ジョン・ラスキンの妻エフィと恋に落ち、エフィは1854年ラスキンと離婚。ミレーとエフィは翌年の1855年に結婚しました。

その少し前の1853年暮れ、ロイヤル・アカデミー準会員に選ばれたことで、ミレーはラファエル前派から離れていました。

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ミレー 1854年頃の写真

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評論家ジョン・ラスキン

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エフィ―

 

ミレーに妻を奪われたラスキンはロセッティに関心を移し、「ベアトリーチェ」に傾倒する彼の絵画を買い上げ、追加注文を出すなどしました。生活の苦しいロセッティを助けると同時に、絵の才能のあったリジーにも援助をするのです。リジーは既に結核に侵されていましたが、彼女の作品も買い上げて、芸術家として暮らせるようにと金銭的な援助も行いました。

 

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ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ

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ウィリアム・ホルマン・ハント

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エリザベス(リジー)・シダル 1860年頃の写真

 

さてラスキンは、リジーを静養と絵の勉強を兼ねてパリ、南仏へ行かせる。ラスキンが出した費用の一部を着服したロセッティも、パリまでついて行く。1855年9月、パリ万国博にミレーやハントの絵が展示されていた。リジーは自分がモデルの《オフィーリア》を、どういう気持ちで眺めただろうか。師ロセッティの絵はない。

(『ラファエル前派と世紀末』 鳥海久義(著) 評論社 P50)

 

 

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ジーの自画像 1853年と1854年の間

 

 

 ミレー、『オフィーリア』に関連する記事

hanna-and-art.hatenablog.com 

hanna-and-art.hatenablog.com

 

 

 

主な参考図書

  • 水の女』 トレヴィル(発行)リブロポート(発売)
  • 『ラファエル前派と世紀末』 鳥海久義(著) 評論社
  • 『宿命の女 愛と美のイメジャリー』 松浦暢(著) 平凡社
  • 『イギリス美術』 高橋裕子(著) 岩波新書
  • 「西洋絵画のなかのシェイクスピア展」(1992-93)
  • 『ウォーターハウス 夢幻絵画館』 川端康雄(監修・著) 加藤明子(著) 東京美術 

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