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文化史本好きが、「文化史系本のガイド」を目指します。美術、世界史と絡んだ様々な文化史関連本をご紹介します。

ハプスブルク家のクニグンデ姫の「騙され婚」と「ビール純粋令」

神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の娘クニグンデ 

クニグンデ・フォン・エスターライヒ バイエルン公妃 神聖ローマ皇帝娘

クニグンデ・フォン・エスターライヒ(1465年3月16日ー1520年8月6日) 1485年頃

 

兄は「中世最後の騎士」神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世。

父は「神聖ローマ帝国の大愚図」 神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世、母はエレオノーレ・ヘレナ・フォン・ポルトゥガルです。

夫妻の子供のうち、成人したのはマクシミリアンとクニグンデのふたりだけでした。

この兄妹の名前は聖人から取られました。

マクシミリアンの名は「ロルヒの聖マクシミリアン」に由来します。

(参考:『ハプスブルク帝国』(岩崎周一(著) 講談社現代新書 P68)

「聖女クニグンデ」は11世紀初頭の神聖ローマ皇帝妃で、後に聖者に列せられた女性です。

 

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神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世 (1459年3月22日ー1519年1月12日)

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神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世とエレオノーレ・ヘレナ・フォン・ポルトゥガル

 

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兄マクシミリアンはブルゴーニュ公女マリーと1477年に結婚しましたが、クニグンデの結婚は1487年です。

当時としては少々遅めの25歳の時のことでした。

お相手はバイエルン公アルブレヒト4世。「狡猾侯」(「狡猾公」)との異名が付くくらい、野心たっぷりの君主でした。

 

 

娘を何処に嫁入りさせようか?

クニグンデが5歳くらいの頃、隣国ハンガリーのマーチャーシュ1世から結婚の申し込みがありました。同盟して、共にオスマン・トルコに対抗しようとのことでしたが、マーチャーシュは当時30歳。

フリードリヒ3世はこの縁談を断りました。

英邁な彼を娘の婿にしてしまえば、ハプスブルク家が彼に乗っ取られてしまう可能性があるからです。

1485年、ウィーンはそのマーチャーシュ1世に占領され、父帝フリードリヒ3世はリンツへ宮廷を移しました。 

ウィーンを追われ、領国内を逃げまどう「神聖ローマ帝国の大愚図」 フリードリヒ3世は、ある計画を思いつきます。

その計画とは、娘のクニグンデをオスマン帝国のスルタン(メフメト2世)に差し出すというもの。

 

トルコの軍勢により、ウィーンに居座るハンガリー王を駆逐してもらおうというお粗末きわまる愚考である。しかしそれにしても、カトリック教会の保護者を任じる皇帝とあろうものがとんでもないことを思いついたものである。まさに貧すれば鈍するを地でいったものだ。さすがにこれは実現しなかった。

(『ハプスブルクをつくった男』 菊池良生(著) 講談社現代新書 P130)

 

当のクニグンデは父たちとは別行動をしており、父の従弟ジークムント(ジギスムントとも表記)の領地であるチロルのインスブルックに来ていました。

※マーチャーシュ1世は、ハンガリー語名ではフニャディ・マーチャーシュ、ラテン語名でマティアス・コルヴィヌスです。

マーチャーシュは1490年に病没し、その後ハンガリー軍は退却、マクシミリアン1世に領内まで攻め込まれます。

 

 

チロルにて

 

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オーストリア大公ジークムント(1427年10月26日ー1496年3月4日)

 

銀山も豊富なチロルは、通商だけでなく戦略的にも重要な土地でした。
1446年から1490年までそのチロルを統治したジークムントは、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の従弟です。フリードリヒ3世によって1477年に「大公位」を授けられました。

 

妻と死別し、子供のいないジークムントは、クニグンデを大いに歓迎してくれました。

クニグンデはケチで知られる父の宮廷では考えられないもてなし振りに驚きますが、このジークムントは政務は顧みず酒食に溺れ、浪費、放蕩三昧の人物。付いた渾名は「豊貨侯」でした。

 

この「豊貨侯」ジークムントの財源は、莫大な借金でした。

では、この金は誰が貸していたのか。

チロル「奪還」を狙うバイエルン公アルブレヒト4世だったのです。

 

 

チロル「奪還」 

 

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バイエルン公アルブレヒト4世(1447年12月15日ー1508年3月18日)

 

その当時は「上」バイエルン公。

「狡猾侯」以外に「賢侯」とも呼ばれます。

アルブレヒト4世は、

自分の財産や権力拡大のためなら、羞恥心もかなぐり捨てて突進する君主だった。

 アルブレヒト4世は兄ジギスムントから上バイエルン公位を奪い取り、「ランツフート戦争」に勝利してバイエルンの大半を獲得する。彼の次なる野望は、ハプスブルク帝国領をバイエルンに組み入れた「大バイエルン帝国」を築くという、何とも壮大な構想だった。

(『ドイツ王室1000年史』 関田淳子(著) 中経出版 P102)

 

彼が目をつけたのが、チロル。そして、ハプスブルク家のクニグンデだったのです。

アルブレヒト4世は考えました。

 

チロル。ここがハプスブルク家の領地になったのはつい100年前のことである。もちろんその際、各家入り乱れての熾烈なチロル獲得レースが繰り広げられた。そしてそのレースの先頭を走っていたのはむしろ我がヴィッテルスバハ家だったのだ。それが14世紀、ハプスブルク家の梟雄(きょうゆう)ルドルフ4世にまんまとしてやられたのだ。それも偽の文書を使った姑息きわまる手段でだ。こんな手に引っ掛かりおめおめと引き下がった我が祖先もだらしがない。しかし今がチャンスだ。チロルの敵をチロルで討つ!

(『ドイツ300諸侯 一千年の興亡』 菊池良生(著) P76)

※この「姑息きわまる手段」である文書改ざん事件は『ハプスブルクをつくった男』(菊池良生(著) 講談社現代新書)に載っています。ご興味のある方、チロル旅行を計画中の方は是非ご一読を。

 

ヴィッテルスバッハ(ヴィッテルスバハ)家当主のバイエルン公アルブレヒト4世は、チロルの大公であるジークムントにせっせと金を貸し続けました。

宮廷楽長の年棒が80グルデンだった時代に、借金の額はついに100万グルデンに達しました。

その担保はもちろんチロル。

酒に溺れた領主ジークムントは廃人一歩手前です。

嫡子の無い彼が亡くなった場合、チロルは神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世のものになりますが、フリードリヒ3世がこの借金を清算しなければ、チロルはヴィッテルスバッハ家が領有するという約定付きでした。

貧乏な皇帝に、そんな額を返せる筈がありません。

クニグンデがチロルを訪れたのはこの頃だったのです。

 

求婚

ジークムントの仲介で、アルブレヒト4世はクニグンデに求婚します。

当時リンツにいた父フリードリヒ3世は、この縁談に乗って来ました。

これで借金をなんとかできる、と思ったのでしょうか。

話はついたと思ったのも束の間、アルブレヒト4世は突然レーゲンスブルクに自分たち新婚夫婦の居城建設を始めます。

 

アルプレヒトは自領内にある帝国都市レーゲンスブルクを突如として占領し、居城の建設を始めた。帝国都市とは名目上は皇帝の直轄都市である。皇帝フリードリヒは「レーゲンスブルクはを諦めるぐらいならオーストリア全土を失う方がまだましである」と激怒した。ただちに娘との結婚の破談をアルプレヒトに通告してきた。

(『ドイツ300諸侯 一千年の興亡』 菊池良生(著) 河出書房新社 P76)

 

皇帝の直轄都市であるレーゲンスブルクを失うということは、フリードリヒ3世にしてみれば、「我が帝国都市を失えば歴代皇帝の廟堂に顔向けできない」ということです。

しかし、クニグンデは父の激怒と破談通告を知りません。アルブレヒト4世(アルプレヒト)は結婚を急ぎます。

1487年1月3日。インスブルックでの結婚式直前、アルブレヒト4世は新婦となるクニグンデに父帝の結婚同意書を見せます。

 

見事な達筆で皇帝の印璽(いんじ)も押してある。これが真っ赤な偽物と誰が疑おうか?新婦クニグンデは幸せを噛みしめる。新郎アルプレヒトは「たとえ我がヴィッテルスバハ家に嫁がれても、御実家ハプスブルク家のそなたの相続権を放棄なさるな」と新婦に釘をさす。なにも知らない妻はこれも夫の深い思い遣り、と嬉しく頷いた。

(『ドイツ300諸侯 一千年の興亡』)  

 

挙式後ふたりはレーゲンスブルクに赴くのですが、バイエルン公妃となったクニグンデはそこで自分が騙されて連れてこられたことに気付くのです。

偽造された文書で騙されて、強奪された。

それは100年前のルドルフ4世の手口と同じものでした。

 

娘を奪われて、父帝が怒らない筈はありません。

アルブレヒト4世とハプスブルク家は激突寸前でした。

父の反対にも関わらず、クニグンデはアルブレヒト4世の元に留まります。

神の前で誓った永遠の愛。夫のやり口は汚いけれど、ふたりを分かつものはもはや死だけなのです。

腹を括ったクニグンデは妻の務めだけは果たそうと決意、まずは父と夫との仲を取り持つべく、ローマ王となっていた兄に仲介を頼みます。

 

彼は妹クニグンデを狡猾公に一つの伯爵領の持参金付きでくれてやり、また幾ばくかの金でチロルへの要求権を放棄させた。

 狡猾公にしても弟の下バイエルン公を軍事的に追い詰めている最中である。バイエルンの統一は狡猾公の宿願であり、これ以上長く皇帝と正面きって事を構えるのは得策ではない。ここは皇帝の娘を嫁に迎えたという箔付けで弟にさらに追い討ちをかけておいたほうがよい。

 こうして狡猾公はマクシミリアンの提案に乗ったのだ。そしてマクシミリアンは豊貨公亡き後、自らチロル領主となった。以来、チロルはハプスブルク家に忠誠を誓う王党派の金城湯池(きんじょうとうち)となる。

(『ハプスブルクをつくった男』 P134) 

 

アルプレヒトはレーゲンスブルクを放棄し、チロル獲得を断念した。その代わりバイエルンのなかに虫食いのように存在していたある伯爵領が、妻クニグンデの持参金として皇帝より封土された。

 しかしバイエルン公アルプレヒト4世賢公が手にした持参金とは、実はクニグンデそのものであった。彼女は夫に三男五女をプレゼントし、王侯の妻の最大の務めを果たした。それだけではない。アルプレヒトはクニグンデの内助によりルネッサンス君主として名君の名をほしいままにしたのである。そしてクニグンデはそんな夫の死後、直ちに修道院に入り、尼御前(あまごぜ)としてバイエルン宮廷に睨みをきかし、社稷(しゃしょく)の揺れをふせぎ後代につないだ。

(『ドイツ300諸侯 一千年の興亡』)  

 

 

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1531年 アルテ・ピナコテーク蔵

 

オーストリア大公ジークムントは、1490までに領主権をマクシミリアンに譲渡しました。

江村洋氏の『ハプスブルク家講談社現代新書では、ここまでの経緯が

 

それとほぼ同じころ、ローマ王はインスブルックを首都とするチロル州の継承にも成功した。チロル州はハプスブルクの別系統に属していたのだったが、君主ジギスムントの放縦な政治と遊興三昧のために、一時は隣国バイエルンに併合されかかっていたものを、マクシミリアンが奔走して調整役をつとめ、巧みに併合を忌避すると同時に、彼がチロルを継承することとした。それによって諸州に分裂していたオーストリア全体が、マクシミリアンのもとで統一されることとなったのである。(P58)

 

となり、バイエルンの名は出て来るものの、マクシミリアンの妹クニグンデやバイエルン公アルブレヒト4世の名前は出てきません。

 

 

長男ヴィルヘルム4世

 

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バイエルン公ヴィルヘルム4世(1493年11月13日ー1550年3月7日)

 

クニグンデとアルブレヒト4世の長男です。

1546年に始まったシュマルカルデン戦争では、神聖ローマ皇帝カール5世(マクシミリアン1世の孫)の下で戦いました。

 

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神聖ローマ皇帝カール5世 (1500年2月24日ー1558年9月21日)



1487年にアルブレヒト4世がミュンヘン醸造業者に対し、ビールの原料は大麦、ホップ、水だけを使い、別のものを混ぜてはいけないと命じていましたが、1516年、息子ヴィルヘルム4世により、現在でもドイツで存続している法律「ビール純粋令」が出されます。

1516年4月23日、バイエルン公ヴィルヘルム4世は、「ビールには原料として大麦とホップと水だけが使用されねばならない」という内容の条例を公布しました。

それまで使用されていたグルート(ハーブとスパイスを混合したもの)はこれ以降使われなくなりました。使われていた薬用植物の中には、ベラドンナなど人体に危険なものも含まれていました。

 

この純粋令は、世界初の食品・飲料の法律と言われており、品質を守るために画期的なものであると評価できます。歴史的な背景もありますが、このような品質に対する強いこだわりも「ドイツがビールの本場」と言わしめるゆえんでしょう。ちなみに、小麦が純粋令に入っていないのは、パンなどの食料としての用途への影響を考慮したためだと言われています。また、宮廷醸造所などだけでは例外的に小麦も使用されましたが(ヴァイツェンビール)、その理由は独占販売権を守るためのものであったとも言われています。

(『ビールの科学 麦とホップが生み出すおいしさの秘密』 渡淳二(監修) サッポロビール 価値創造フロンティア研究所(編) P47)

 

このビール純粋令のおかげで、バイエルンのビールの品質は大きく向上することになったのです。

 

 

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主な参考図書

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