hanna_and_art’s blog

文化史本好きが、「文化史系本のガイド」を目指します。美術、世界史と絡んだ様々な文化史関連本をご紹介します。

神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世皇后エレオノーレの衣裳 

ブルーオニオン。本当は玉ネギではなく、

マイセン磁器の代名詞とも言える、「ブルーオニオン」。

 

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しかし、実はこの丸っこいのは玉ネギではなく、元は柘榴(ザクロ)でした。

 

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東洋の磁器に描かれた、見慣れないエキゾチックな果実は、最初こそ忠実に写し取られていましたが、次第に職人たちの身近にある、馴染みのある玉ネギに姿を変えていった、という説が有力です。

 

ザクロ

ザクロ

  

その真紅とも言える赤色。固い皮の中にぎっしりと詰まった果肉。

多子多産や豊穣のイメージと結びついたザクロは、古代ギリシアの神話(冥界の果実)やキリスト教の絵画にもよく見られます。

勿論、衣裳のデザインにも使われました。

 

エレオノーレ・ヘレナ・フォン・ポルトゥガル

エレオノーレ・ヘレナ・フォン・ポルトゥガル(Eleonore Helena von Portugal, 1436年9月18日 - 1467年9月3日)は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の皇后です。

 

エレオノーレ・ヘレナ・フォン・ポルトゥガル 神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世妃 クニグンデの母

エレオノーレ・ヘレナ・フォン・ポルトゥガル 1468年以降 美術史美術館蔵

 

彼女の胸の上に、ザクロのモティーフが見られます。

 

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神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の皇后エレオノーレのまとう豪華な服は、おそらくイタリア製のヴェルヴェットであろう。左胸には抽象化したザクロからカーネーションらしき花が展開するパターンが見え、右胸と左上腕部には赤い実がのぞくザクロが3つずつ確認できる。

(『すぐわかるヨーロッパの装飾文様』 鶴岡真弓(編著) 東京美術) 

 

フリードリヒ3世とエレオノーレの対面 ピントゥリッキオの絵

フリードリヒ3世とエレオノーレの対面を描いたピントゥリッキオの絵 1502~1507年頃

 

エレオノーレは髪をおさげに結っていますが、これはこの当時の女性を描いた肖像画によく見られる髪型です。

 

エレアノールのガウンの深い襟あきには薄いバートレットがかかり、袖はいくつかに分かれた手の込んだ作りで、非常にたっぷりとしたランジェリー・スリーブが花綵(はなづな)のように垂れている。スカートは、わずかに裾を引いている。

(『ファッションの歴史 西洋中世から19世紀まで』 ブランシュ・ペイン著 古賀敬子訳 八坂書房 P195)

※花綵(はなづな)とは 「植物の花・実・葉などを綱状に編んだ飾り」(Weblio辞書)。

パートレットとは、16世紀頃、「深く大きくあいた襟ぐりの内側に薄い布をかけ、その下に刺繍を飾ったパートレットを着けるようになった」(『ファッションの歴史 西洋中世から19世紀まで』P197)とあります。

この絵のエレオノーレの襟ぐりも大きく開いており、そこに薄い布がかかったような描写がされています。
また、袖にはスリットが入っていて、そこから別の布(リネン?)をのぞかせています。

 

 

神聖ローマ皇帝と結婚した筈なのに…

陽光輝くポルトガルリスボンで、エレオノーレは王女として生まれました。

 

南国育ちそのままに、快活で生気に溢れ、何の憂いもない楽しい少女時代を過ごした。植民地貿易で今をときめくリスボンの王宮では、高価なじゅうたんが敷き詰められ、四壁は豪華なフランドル製の壁掛けで覆われ、冬でも心地の良い暖かな暮らしをしていた。王女が成長するにつれて、彼女を嫁にと求めてくる若者や君主たちは数多かったが、それまでいかなる相手も断っていたエレオノーレは、ウィーンの皇帝からの求めにだけは直ちに応じた。

(『ハプスブルク家の女たち』 江村洋(著) 講談社現代新書 P17)

 

何故か。

皇帝と結婚すれば、自分は帝妃になれるから。 

 

莫大な持参金を携え、15歳で彼女は輿入れして来ました。
新郎となる神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世は当時36歳。 

 

王女を気に入ったというのではなく、新妻が運んでくる莫大な持参金が目当てだった。15世紀のポルトガル海上貿易で巨利を得ており、万年金欠病のフリードリヒはこの結婚に大きな期待をつないだのだ。

(『ハプスブルク家の食卓』 関田淳子(著) 新人物文庫)

  

エレオノーレは海を越えてリヴォルノ港に到着、シエーナの地でフリードリヒと顔を合わせました。

1452年、ローマでふたりは結婚します。

 

しかし、神聖ローマ皇帝、といっても、フリードリヒ3世は領地も少なく、借金を抱えて万年金欠病。大変な倹約家で、自ら畑も耕していました。

結婚してから実情を知ったエレオノーレは愕然としたといいます。

 

当時のフリードリヒの宮廷は、ウィーンの南のウィーナー・ノイシュタットに置かれていた。ここは王宮というにはあまりにこぢんまりしていて、どちらかというと砦に近かった。どこもかしこも監獄のように薄暗く、粗野で、寒々としていた。ポルトガルの故郷のような豪奢な生活はどこにもなかった。エレオノーレは夫が神聖ローマ帝国の皇帝であるということに、甘い幻想を抱いてきた。この時代のポルトガルは海外貿易が最も発達し、世界でも有数の先進国だったから、その国の王女に生まれたエレオノーレは、皇帝も同じほど豊かなのだろうとしか思っていなかった。ところがそれはとんでもない間違いだった。

(『ハプスブルク家の女たち』 江村洋(著) 講談社現代新書 P19)

 

寡黙で質素、ケチ。妻をほったらかしで、読書や占星術にはまり、畑で野良仕事をする皇帝。

大きく異なる金銭感覚に加え、性格も全く異なるふたりでした。

1459年に待望の男児が生まれます。しかしあまり夫婦仲が良くないことから、この子どもの父親はフリードリヒではないと噂されました。

育ったのは王子マクシミリアンと王女クニグンデの2人でしたが、夫妻の間には合計5人の子どもが生まれていますので、その可能性は低そうです。 

 

フリードリヒ3世は「神聖ローマ帝国の大愚図」と言われ、覇気に乏しい優柔不断な人物とされてきました。(参考『ハプスブルク帝国』(岩崎周一(著) 講談社現代新書

 

1462年、野心を抱くフリードリヒの弟アルブレヒトとの争いで、エレノオーレとマクシミリアンはヴィーンの王宮に幽閉されます。

しかし、アルブレヒトは1463年に死去。暗殺だったとも言われますが、彼の死によってフリードリヒは再びヴィーンを治めました。

その後、今度はハンガリーから侵略され、ハンガリー王マーチャーシュ1世が1485年にヴィーンに入城します。追放されたフリードリヒはリンツに宮廷を移し、マーチャーシュ1世が90年に没した後、ヴィーンに戻りました。

 

母の愛と期待を受けて、王子マクシミリアンは元気に育ちます。

明るい気質は母から受け継いだらしく、陰気で寡黙な父と違い、好奇心旺盛、陽気で誰からも好かれる性格でした。

エレオノーレは、1465年に王女クニグンデを産んだ後体調がすぐれず、1467年に他界します。

長じて「中世最後の騎士」と謳われたマクシミリアンは、自身の結婚も含めた婚姻政策で、ハプスブルクの名を後世に残したのでした。

 

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神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世(1459年3月22日ー1519年1月12日)

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クニグンデ・フォン・エスターライヒ(1465年3月16日ー1520年8月6日)

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主な参考図書

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