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文化史本好きが、「文化史系本のガイド」を目指します。美術、世界史と絡んだ様々な文化史関連本をご紹介します。

アン・ブーリンはレオナルド・ダ・ヴィンチの姿を見掛けたか?

なぜルーヴル美術館にあるのか? ダ・ヴィンチの『モナ・リザ

『モナ・リザ』1503年~1506年頃 ルーヴル美術館蔵

モナ・リザ』1503年~1506年頃 ルーヴル美術館

パリのルーヴル美術館にある『モナ・リザ』。

レオナルド・ダ・ヴィンチが死ぬまで手放すことなく、筆を入れ続けていたと言われています。

何故、イタリアのレオナルド・ダ・ヴィンチの絵が、フランスにあるのでしょうか。

 

1516年、イタリアの偉大なる芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチは、フランス王フランソワ1世に招かれ、フランスにやってきました。
フランソワ1世の居城アンボワーズ城近くのクルーの館に住み、1519年に死去。

この『モナ・リザ』は弟子のサライが相続したということですが、後にフランソワ1世によって買い上げられます。

その後フォンテーヌブロー宮殿に飾られ、ルイ14世ヴェルサイユ宮殿へ移しました。革命後ルーブル美術館へ収められましたが、普仏戦争や世界大戦などの戦禍を避けるため各地を転々とし、一時ナポレオンの寝室に掛けられたこともありました。

存命中からレオナルドの名声は高く、「フランソワ1世の腕の中で息を引き取った」という伝承が残っているほどフランソワ1世から賞賛、厚遇されました。

下は、その伝承を元にした巨匠アングルによる絵画です。

 

『レオナルド・ダ・ヴィンチの死』 ドミニク・アングル 1818年 プティ・パレ美術館

レオナルド・ダ・ヴィンチの死』 ドミニク・アングル 1818年 プティ・パレ美術館



 

アン・ブーリン、フランスへ 

当時のヨーロッパで最も文化水準が高かった、 ネーデルラントの総督マルグリット・ドートリッシュの宮廷。

マルグリットは甥(後の神聖ローマ皇帝カール5世)や姪(後のフランソワ1世の二度目の妻レオノール他)を引き取り養育していました。

 

マルグリット・ドートリッシュ(1480年1月10日ー1530年12月1日)

マルグリット・ドートリッシュ(1480年1月10日ー1530年12月1日)

 

外交官で勉学好きだったトマス・ブーリンは、自分の娘のアンを預かってもらえないかマルグリット(マルガレーテ)に打診し、受け入れられます。

1513年6月半ば、アンはマルグリットの宮廷があるブルゴーニュに送り出されます。

 

1513年の、ブーリン宛マルガレーテ総督の手紙が残っている。アンが無事到着したこと、賢い娘さんを預かることになって嬉しい、といった内容だ。このときアンは13歳だったのだろうか、それともまだたった6歳だったのだろうか?手紙には、年齢のわりに立ち居振る舞いが立派、との褒め言葉もあるが、そこから類推できることは何もない。13歳であっても6歳であっても当てはまるからだ。

(『残酷な王と悲しみの王妃』 中野京子(著) 集英社文庫 P204)

 アン・ブーリンの生年は諸説有り、はっきりしません。1500年生まれとすれば、この時彼女は13歳くらいです。

 

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この留学はイングランドとスペインの関係悪化により、短期間で終わりました。

1514年、ヘンリー8世の妹(メアリー・テューダー)がフランスへ輿入れするため、それについて彼女もフランスへ渡ることになったのです。

 

メアリー・テューダー(フランス語名マリー・ダングルテール)とルイ12世の結婚は、ルイ12世の死で3ヵ月で終わりを告げました。メアリーはイングランドに帰国しましたが、アンは、ルイ12世の娘で、次のフランス国王フランソワ1世妃であるクロードの宮廷に留まりました。

 

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中央がクロード 16世紀の細密画『カトリーヌ・ド・メディシスの時禱書』より

 

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フランソワ1世 (1494年9月12日ー1547年3月31日)

王は即位まもなくミラノへ遠征したが、進んだイタリア文化に完全にノックアウトされ、絵画や彫刻、書籍や贅沢品を収集(半ば収奪(しゅうだつ))するとともに、おおぜいの芸術家を国へ招いて庇護した。レオナルド・ダ・ヴィンチが最晩年をフランスで送ったのはそのためで、ルーヴル美術館に『モナ・リザ』があるのもまたそのおかげである(アンが老レオナルドに会う機会はあったのだろうか?)

(『残酷な王と悲しみの王妃』 P206)

 

1516年、フランソワの招待に応じてフランスに来たイタリアの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)が老いの身を落ち着けたのは、クロード王妃の住むアンボワーズ城のすぐそばのクロー村であったから、アンもダ・ヴィンチの姿を目にしたにちがいない。

(『図説 エリザベス一世』 石井美樹子(著) 河出書房新社 P18)

 

レオナルドだけでなく、彫刻や「黄金の塩容れ」で有名なベンヴェヌート・チェッリーニ(チェリーニとも表記)も、フランソワ1世に招かれ、1540年から5年間パリに滞在しています。

この、ルネサンスの花が大きく華麗に開いた時代の宮廷に、アン・ブーリンはいたのです。

 

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ヘンリー8世の2番目の王妃となったアン・ブーリン(1501年頃ー1536年5月19日)

 

王妃クロードの通訳として仕え、流暢なフランス語を話し、同時代の宮廷人からも「言われなければ、外国人だとわからない」とまで言われました。 

 

リエの司教ランスロット・ド・カールは、「その立ち居振る舞いや作法からは、決してイングランドの女性だとは思われないだろう。フランスで生まれ育ったかのようだ」と書いている。

(『史上最悪の破局を迎えた13の恋物語』 ジェニファー・ライト(著) 二木かおる(訳) 原書房 P91)

 

イングランドに帰国した彼女は、その時代の美女の定義からは外れていたのかもしれませんが、粋で、洗練されたフランス仕込みの会話や物腰が人々の目を惹きました。ダンスやリュートの演奏も上手だったといわれています。

 

アンはブルゴーニュにおいて、女性ながらトップの座に君臨し、優れた政治手腕をふるうマルガレーテの姿を間近に見てきた。さらにフランソワ1世の宮廷では、陰で王や権力者に強い影響を与える女性たちの力を知った。その力の効果的使い方、その力の拠ってきたる男殺しのテクニックを学んだ。

(『残酷な王と悲しみの王妃』 P208)

 

 今のところ「アン・ブーリンレオナルド・ダ・ヴィンチに会った」という話は無いようですが、もしかしたら遠くから見掛けたことくらいはあったのかもしれませんね。

 

 姉妹メアリー・ブーリン

ちなみに、アン・ブーリンには年齢の近い姉妹・メアリーがいました。

 

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メアリー・ブーリン(1499年または1500年頃ー1543年7月19日)

 

彼女もフランスの宮廷にいたのですが、フランソワ1世から「下品な娼婦」(『ダーク・ヒストリー 図説イギリス王室史』(原書房))と見なされていたようです。

アンより一足先に帰国したメアリーはヘンリー8世の愛人となり、子どもまで産みましたが、ヘンリーには彼女と結婚する気など皆無でした。

大勢の中の愛人の一人。飽きられれば捨てられて、それで終わりです。

アンはメアリーの二の舞を演じる気はありませんでした。

その後ヘンリー8世の目に留まり、求愛され、王妃となったアンはエリザベス1世の生母となりました。

 

 

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