hanna_and_art’s blog

文化史本好きが、「文化史系本のガイド」を目指します。美術、世界史と絡んだ様々な文化史関連本をご紹介します。

ヘンリー7世 「冬の王」のお見合い肖像画

ヘンリー7世(1457年1月28日ー1509年4月21日)

彼は一市民のように、出納簿を綿密につけた、『カルタで王の負け、9ポンド。…テニスの球の紛失、3シリング。…小唄作曲の褒美として道化役に…』。

しかしこれとて正確な計算書ではあっても、守銭奴のそれではない。彼の宮廷の豪奢、彼の宝石の美しさ、金襴の裏をつけた紫の天鵞絨の服、それらはミラノとスペインとの使節を驚かした。事の真相は、このチュードル家最初の王が金銭を愛したのは、いまや封建社会が崩壊して、金銭が力の新しい表徴となったが故と思われる。16世紀にあっては、もし王が貧乏であれば、貴族及び議会に屈する弱い王とならざるをえなかった。

(『英国史〔上〕』 アンドレ・モロワ(著) 新潮文庫 P277) 

 (※チュードルとはテューダー、天鵞絨はビロードです)

「彼」は薔薇戦争後のイングランドの経済を安定させ、息子に莫大な財産を遺しました。

 

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ヘンリー7世 1505年 作者不詳 ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵

 

この絵を描いた人物について、中野京子氏の『名画で読み解く イギリス王家 12の物語』(光文社新書907)では「伝ミケル・シトウ画」となっています。

ミケル・シトウ(Michel Sittow)はエストニア生まれの画家で、カスティーリャ女王イサベル1世ハプスブルク家などの宮廷画家として、スペイン、ネーデルラントで活躍しました。

高橋裕子氏は著書『イギリス美術』(岩波新書)の中で、上の『ヘンリー7世』の肖像画を挙げ、

 

こちらはエストニア生まれでフランドルで修業したミヒール・シットウの作とされていたが、所蔵美術館の最近の刊行物では、単に「ネーデルラントの画家」作となっている(16,7世紀のイギリスの肖像画の本格的研究はまだ緒に就いたばかりとは言え、作品の作者判定もモデル判定もしばしば変化するので油断がならない)。(P30)

 

以下は、ミケル・シトウの作品とされているものです。

 

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ヘンリー8世妃キャサリン・オブ・アラゴン (1487年12月16日ー1536年1月7日)

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アラゴン王フェルナンド2世 (1452年3月10日ー1516年6月23日)

 

フェルナンド2世は最初の妻・カスティーリャ女王イザベル1世と共に「カトリック両王」と呼ばれた人物で、キャサリン・オブ・アラゴンはフェルナンド2世の末娘です。

彼は「狂女王」ファナの父親でもあり、神聖ローマ皇帝カール5世、フェルディナンド1世の祖父でもあります。

また、息子・フアンの妻となったマルグリット・ドートリッシュにとっては、義父に当たります。

 

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デンマーク王クリスチャン2世(1481年7月1日ー1559年1月25日)


クリスチャン2世は、「狂女王」フアナの娘であるイサベル・デ・アウストリアの夫です。

フェルナンド2世から見れば孫娘の夫。

そしてホルバインの肖像画のモデルとなった、「デンマークのクリスティーナ」の父親です。

hanna-and-art.hatenablog.com

 

 

ヘンリー7世の「見合い肖像画

 どう見ても「タダモノではない」感が漂うヘンリー7世。この微笑みの意味は…と勘ぐってしまいます。いいひとそうに見せているけど、確実に腹に一物持っていそう、と。

 

この絵は、当時、最初の妻エリザベスに死別していた48歳のヘンリー7世が、神聖ローマ皇帝マクシミリアンの娘に求婚するための「見合い肖像画」として、1505年に制作されたものであるが、皇帝父娘もこの容貌に信用ならぬものを感じたのか、縁談はまとまらなかった。(『イギリス美術』(P30)

 

 その皇帝父娘がこちらです。

 

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神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世 (1459年3月22日ー1519年1月12日)

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マルグリット・ドートリッシュ(1480年1月10日ー1530年12月1日)

 

画中のヘンリーは、深緋色のベルベットに金糸を織り込んだ正衣を纏い、その下襟は白い毛皮で縁取りされており、ガーター勲章を授与されたブルゴーニュ公からの答礼の品、金羊毛勲章が襟元を飾っていた。頭にはいつものごとく黒いフェルト帽を被り、白いものの混じる黒髪は肩まで届いていた。また、長い闘病生活のため頬はこけていたが、固く結ばれた口元とよく締まった顎からは、意思の強さが窺えた。

(『冬の王 ヘンリー7世と黎明のテューダー王朝』 トマス・ペン(著) 陶山昇平(訳) 彩流社 P228)

 

金羊毛勲章はこちらです。

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金羊毛勲章(頸飾)

 

間に羊が吊るされています。

1430年に、ブルゴーニュのフィリップ善良公(ル・ボン)は自身の結婚に際し、イングランドガーター騎士団に倣って金羊毛騎士団を作りました。 

このフィリップ善良公の孫娘が、マリー・ド・ブルゴーニュです。

神聖ローマ皇帝マクシミリアンと結婚し、フィリップ美公とマルグリット・ドートリッシュの母となりました。夫と子供たちに囲まれた幸せな結婚生活でしたが、落馬事故が元で亡くなりました。

 

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マリー・ド・ブルゴーニュ (1457年2月13日ー1482年3月27日)

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フィリップ美公 (1478年7月22日ー1506年9月25日)

フィリップ美公の頸飾もご覧くださいませ。

 

ヘンリー7世のお見合い肖像画が描かれた1505年、マルグリット・ドートリッシュは25歳でした。

マルグリットは2回結婚し、2回とも夫と死別しています。

二人目の夫はサヴォイ公フィリベルトといいますが、最初の夫であるフアンはカトリック両王の長男でした。彼の姉妹に「狂女王」フアナ、カタリナ(英語名キャサリン・オブ・アラゴン)がいます。

仲睦まじい夫婦でしたが、フアンは急死。マルグリットは懐妊していたのですが子どもは死産でした。

 

一方、キャサリン・オブ・アラゴンはヘンリー7世の嫡男・アーサーと結婚。

しかし、1502年にアーサーが亡くなり、キャサリンは10代半ばで未亡人となってしまいます。

通常なら花嫁は持参金と共に帰国するところなのですが、ヘンリーはそうはしませんでした。

「持参金を惜しんだ」ためもあるのか、とにかく、スペインとの縁を切りたくないヘンリーは、妻エリザベス亡き後、自らキャサリンの夫に名乗りを挙げます。

しかしこれについてはスペイン側が態度を硬化させたため、断念。

(後に、キャサリンは彼の次男であるヘンリーと結婚します。このヘンリーが、「ヘンリー8世」です。)

 

ヘンリーのもうけた男子のなかで生き残ったのは次男のヘンリーただ一人。チューダー朝の安泰のためにも、もう一人男子が欲しい。

ハプスブルク家とも縁を保っておきたい。

彼はマルグリットとの縁談を真剣に考えていたようです。

 

…ヘンリーはメアリー王女と、ブルゴーニュ大公夫妻の世継ぎシャルルとの縁組交渉を再開していたのである。さらに、フィリップ大公の妹で、サヴォイ公に先立たれたばかりの裕福なマルグリット(マルグリット・ドートリッシュ)と自身の縁談も並行して進めていた。ヘンリーの金満ぶりに目が眩んだ大公と皇帝は、この縁談に前のめりになっていたが、肝心のマルグリットはあまり乗り気でなかったようである。(『冬の王』P228)

 

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イングランド王女マリー・ダングルテール(英語名メアリー・テューダー)

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シャルル(神聖ローマ皇帝カール5世)

 

神聖ローマ皇帝マクシミリアンとの仲は今ひとつでしたが、マクシミリアンの息子であるブルゴーニュ公フィリップ美公はヘンリーに金羊毛勲章を贈ってくれた人物です。

 

なぜヘンリはこの首飾りをつけた肖像画を描かせたのでしょうか。

 

もし彼が、単にイングランド国王の立場として、マルガレーテに肖像画を贈っていたならば、彼の首に着けられたのは金羊毛騎士団の頸飾(けいしょく)ではなく、自らが主催者を務める、イングランド最高位のガーター騎士団の頸飾であったはずなのだ。

(中略)

 本来なら、イングランド国王であるヘンリは、この騎士団の頸飾を着けて肖像画を描かせるのが筋であろう。ところが、あえて金羊毛騎士団の頸飾を目立つように着けて、しかもイングランドの画家にではなく、ネーデルラントの画家に描かせたということは、「自分はあなた方(ハプスブルク家)の同盟者なんですよ」とのメッセージに他ならない。さらにこの栄誉を与えてくれたのは、マルガレーテの実の兄なのである。その兄フィリップの妻は、皇太子ヘンリの妻に予定されていたキャサリンの実の姉にあたる。(『肖像画で読み解くイギリス王室の物語』 君塚直隆(著) 光文社新書482 P34)

 

彼のこのメッセージは伝わらなかったのか、マルグリット(マルガレーテ)は肖像画を返却してきました。

現代において、「お見合い肖像画」は送り先である相手の国にあることが多いのですが、イングランド国王のヘンリー7世の肖像画を英国ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーで観ることが出来るのはそのためなのですね。

 

 

ヘンリー7世の妻 エリザベス・オブ・ヨーク

 

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エリザベス・オブ・ヨーク(1466年2月11日ー1503年2月11日)

 

ヨーク朝イングランドエドワード4世の王女であり、ヘンリー7世妃エリザベスが手に持つのは、ヨーク朝の白いバラです。

ランカスター朝の流れを汲むヘンリー7世は、肖像画では赤いバラを持っています。

薔薇戦争(1455~85年)を終結させテューダー朝を開いたヘンリーは、ヨーク家のエリザベスを妻に迎えました。

政略結婚ではありましたが、その結婚生活の中でふたりは愛し合っていたといいます。

長男アーサーの突然の死の知らせに、

 

訃報に接したヘンリーは、真っ先にエリザベス王妃に使者を出し、自室に呼び出した。「心からの悲しみ」の淵にあるヘンリーと対面したエリザベスは、夫を慰めようと努めた。王妃の示した態度は夫の悲しみを癒やし、また理性的でさえあった。彼女は夫に向かって、自分たちには「頼もしく、器量に優れた」王子と美しい二人の王女がいることを忘れてはいけないと語りかけたのである。さらに、王には妻たる自分がおり、「私たちはまだ十分若く」これから子に恵まれることもあると告げたのだった。落ち着きを取り戻したヘンリーは妻に感謝の言葉をかけた。そして、王妃は侍女たちを随えて自室に戻ると、その場で泣き崩れたのだった。それから先ほどの光景が再現された。今回はヘンリーが「時宜を得た早さで」エリザベスの許を訪ねて慰めの言葉をかけたのである。これは「真の優しさと誠実さに支えられた愛情」から出たものだった。そして、ヘンリーは先ほど妻から受けたばかりの助言を、今度は彼女に与えたのだった。(『冬の王』P95)

 

エリザベスはその後実際に妊娠します。

しかし、彼女自身の誕生日の2月11日、37歳で産褥死し、産み落とされ、キャサリンと名付けられた女の子も程なく息を引き取りました。

ヘンリーはその後リッチモンドへ向かい、宮殿内の自室で泣き崩れました。

 

ヘンリーとエリザベスの結婚は、実利的な観点から行われたものではあったが、波乱に満ちた18年間をよく耐え抜き、実りあるものとなっていた。互いに惹かれ合い、愛情と敬意に満ちた「真の愛情」によるこの結婚から、ヘンリーは大きな力を得ていたようである。実際、二人の次男ヘンリー王子が理想とし、終生追い求めることになるのは、両親の結婚生活の残影だったといえる。 (『冬の王』P95)

 

エリザベスの死はアーサーの未亡人・キャサリン・オブ・アラゴンにとっても大きな悲しみをもたらしました。スペイン語習得に努めるなど、義理の娘となった彼女を気遣ってくれたエリザベス。才色兼備、穏やかな人柄で、誰からも好かれていた女性でした。

テューダー朝を託すべき長男を失くし、最愛の伴侶を失ったヘンリー。

彼は生涯この喪失感から立ち直ることはできなかった、と『冬の王』では語られています。

これ以降彼は次男のヘンリーを次期国王と決め、神聖ローマ皇帝マクシミリアンに数年に渡り総額34万ポンドの金銀・宝石などを贈り、若きヘンリーの後ろ盾になってくれるように働きかけるのです。

そして、テューダーの血は、ヘンリー8世の娘のエリザベス1世に受け継がれて行くのでした。

 

 

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