hanna_and_art’s blog

文化史本好きが、「文化史系本のガイド」を目指します。美術、世界史と絡んだ様々な文化史関連本をご紹介します。

狂女王フアナの子供たち、と孫娘 デンマークのクリスティーナ

「狂女フアナ」(Juana la Loca)

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カスティーリャ女王フアナ 1495年頃 美術史美術館蔵

 

フアナは1479年11月6日、「カトリック両王」と呼ばれた、カスティーリャ女王イサベル1世と、その夫のアラゴン王フェルナンド2世の娘として生まれました。おとなしく、読書好きな子どもでした。

彼女は5人きょうだいの3番目で、兄にフアン、妹にカタリーナ(英語名はキャサリン・オブ・アラゴン)がいます。

 

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アストゥリアス公フアン (1478年6月28日ー1497年10月4日)

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キャサリン・オブ・アラゴン (1487年12月16日ー1536年1月7日)

 

1496年、フアナは、ハプスブルク家神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の長男であるブルゴーニュ公フィリップ(フィリップ美公)と結婚します。

 

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フィリップ美公 (1478年7月22日ー1506年9月25日)

 

兄のフアンはフィリップ美公の妹・マルグリット(マルガレーテ)と翌1497年に結婚するという、「二重結婚」でした。

 

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マルグリット・ドートリッシュ(1480年1月10日ー1530年12月1日)

 

結婚当初は情熱的に愛してくれたフィリップでしたが、元々女性関係が派手だったこともあり、次第に他の女性に目を移していきます。
激しい嫉妬と猜疑心に、フアナの精神は蝕まれていきました。
狂気の芽は既にイザベル女王の母親に見られたのですが、フアナにもその兆しが表れたのです。

 

1497年、王位継承者だったフアンが亡くなります。

このときマルグリットは妊娠中でしたが、後に死産。実の娘のように可愛がってくれたイザベル女王の元にしばらく留まった後、マルグリットは1500年に帰国しました。

1504年にはイザベル女王が癌で崩御

そして、最愛の夫であるフィリップが1506年に急死します。

フアナはついに正気を失いました。

 

ふたりの間には6人の子供がいましたが、フアナに子供の養育は出来ない状態でした。

そのため、レオノール、カルロス、イサベル、マリアの4人は兄嫁だったマルグリットが、フェルナンドとカタリナはフェルナンド2世が育てることになったのです。

 

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レオノール(1498年11月15日ー1558年2月25日)

スペイン語名はレオノール・デ・アウストリア(Leonor de Austria)、フランス語名はエレオノール・ドートリッシュ(Éléonore d'Autriche)またはエレオノール・ド・アブスブール(Éléonore de Habsbourg)。初めはポルトガル王マヌエル1世妃となりましたが死別。後にフランス王フランソワ1世妃となり、フランソワ1世とカール5世の橋渡し役を務めました。

 

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レオノール・デ・アウストリア(エレオノール・ドートリッシュ

 

カルロス(1500年2月24日ー1558年9月21日)

神聖ローマ帝国ローマ皇帝(在位:1519年 - 1556年)、およびスペイン国王(在位:1516年 - 1556年)。

スペイン国王としてはカルロス1世(Carlos I)。

 

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神聖ローマ皇帝カール5世

 

イサベル(1501年5月18日ー1525年1月18日)

スペイン語名はイサベル・デ・アウストリア(Isabel de Austria)、デンマーク語ではイサベラ・ア・ブアグン(Isabella af Burgund)、エリサベト・ア・ウストリ(Elisabet af Østrig)。デンマーク王クリスチャン2世の王妃。クリスティーナの生母。

 

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イサベル・デ・アウストリア(イサベラ・ア・ブアグン)

 

フェルナンド(1503年3月10日ー1564年7月25日)

神聖ローマ帝国ローマ皇帝フェルディナント1世(在位:1556年 - 1564年)。オーストリア大公、ボヘミア王ハンガリー王。

ドイツ語名はフェルディナント(Ferdinand)、スペイン語名はフェルナンド(Fernando)。同名のアラゴン王フェルナンド2世からとても可愛がられました。

  

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神聖ローマ皇帝フェルディナンド1世

 

マリア(1505年9月17日 - 1558年10月17日)

ドイツ語名でマリア・フォン・エスターライヒ(Maria von Österreich)。

ハンガリーボヘミアの王ラヨシュ2世の王妃。ラヨシュの死後は再婚しませんでした。

兄カールの命を受け、叔母・マルグリットの後任としてネーデルラント17州の総督を務めました。

 

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マリア・フォン・エスターライヒ

 

カタリナ(1507年1月14日ー1578年2月12日)

スペイン語名はカタリナ・デ・アウストリア(Catalina de Austria)、ドイツ語名はカタリーナ・フォン・シュパーニエン(Katharina von Spanien)。

いとこであるポルトガルジョアン3世の王妃。

ジョアン3世は、カール5世の妻の兄でもあります。

 

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カタリナ・デ・アウストリア(カタリーナ・フォン・シュパーニエン)

 

 

デンマークのクリスティーナ、ミラノ公妃』(1538年)

英国で活躍した画家・ハンス・ホルバイン(子)による、『デンマークのクリスティーナ、ミラノ公妃』の肖像画です。

 

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デンマークのクリスティーナ、ミラノ公妃』1538年 ナショナル・ギャラリー蔵、ロンドン

クリスティーナ(クリスティーヌ・ド・ダヌマルク Christine de Danemark)は、デンマーク王クリスチャン2世とイサベル・デ・アウストリアの末子として、1521年11月デンマークに生まれました。

1523年、父のクリスチャン2世が王位を追われ、一家でフランドルへ亡命。
困窮の中、大伯母マルグリット・ドートリッシュに引き取られます。

1533年、クリスティーナは、ミラノ公フランチェスコ2世・スフォルツァと結婚しますが、夫とは2年後に死別。その後デンマークに帰国します。

  

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ミラノ公フランチェスコ2世・スフォルツァ

 

1538年、ブリュッセルの宮廷に居た彼女は、イングランドの宮廷画家であるハンス・ホルバインと面会します。
その前年に3度目の妃ジェーン・シーモアと死別したイングランド王・ヘンリー8世が、「四番目のお妃」となる女性を探しており、王に見せる肖像画(お見合い写真)を描くため、ホルバインが未亡人であるクリスティーナを訪ねてきたのです。

絵の中の彼女が黒い衣裳なのは、これが喪服だからなのです。

3月12日、彼女は3時間だけホルバインのモデルになることに同意しました。

 

その場で描かれた素描は、イギリス公使によって「まさに完璧」と判断された。

(『ナショナル・ギャラリー コンパニオン・ガイド』 エリカ・ラングミュア(著) 高橋裕子(訳)ミュージアム図書)

 

正面向きのポーズ(ヘンリーの花嫁候補たちを描いたホルバインの他の肖像画にも共通の特徴)は、王の指示で選ばれたとする指摘がある。他の向きではモデルの欠点が隠されてしまう恐れがあると、王は懸念したのかもしれない。

 

非常な美人だったという話はないものの、クリスティーナは手の優雅さを大いに賛美されていた。そこで、この絵の中の手の部分で、ホルバインは肌の繊細な美しさを際立たせるために、リネンやビロード、毛皮、皮、金、宝石の質感の違いを描き分けている。

 

1536年に亡くなってはいましたが、ヘンリー8世の最初の妻であるキャサリン・オブ・アラゴンは、クリスティーナにとって母方の大叔母に当たります。

カール5世に取っても、叔母であるキャサリンに対するヘンリー8世の仕打ちが面白いわけはありません。当然、カール5世はヘンリー8世の離婚に反対し、教皇クレメンス7世に圧力をかけていました。

そして、キャサリンからその地位を奪った2番目の王妃・アン・ブーリンが後に斬首されたことも、クリスティーナは聞いて知っていました。

イングランド王のお妃候補に、と話があった途端、急いで結婚してしまう女性もいたほどです。

クリスティーナは、「私に二つの頭があったら、王と結婚いたします。」(ひとつは王の好きにしていいけれど、一個しかないから斬られたら困る)と答えたのでした。

 

1541年、クリスティーヌはバール公フランソワ(ロレーヌ公フランソワ1世)と再婚します。

 

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バール公フランソワ(ロレーヌ公フランソワ1世)

 

フランソワは、ヘンリーの4番目の王妃となったアンナ・フォン・クレーフェ(英語名アン・オブ・クレーヴズ)のかつての婚約者でした。

クリスティーナとの間には1男2女が生まれましたが、彼は1545年に亡くなります。
幼い長男がロレーヌ公シャルル3世となり、クリスティーナは長く摂政を務めました。

1590年8月10日、クリスティーナはトルトーナで亡くなりました。

 

 

 

 

元になった「ハンナとゲミュートリッヒカイト」内の記事

『デンマークのクリスティーナ、ミラノ公妃』 ~『ナショナル・ギャラリー コンパニオン・ガイド』 - ハンナとゲミュートリッヒカイト

主な参考図書

  • 『ナショナル・ギャラリー コンパニオン・ガイド』 エリカ・ラングミュア(著) 高橋裕子(訳)ミュージアム図書