hanna_and_art’s blog

文化史本好きが、「文化史系本のガイド」を目指します。美術、世界史と絡んだ様々な文化史関連本をご紹介します。

アン・ブーリン マルグリット・ドートリッシュの私設学校への留学

アン・ブーリン(1501年頃ー1536年5月19日)

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"Portrait of a Lady, called Anne Boleyn" 1532年~1535年頃 ハンス・ホルバイン

巨匠ホルバインによる「アン・ブーリンとされる女性の肖像」です。

アン・ブーリン(Anne Boleyn)は、イングランドヘンリー8世の2番目の王妃、エリザベス1世の生母です。後に王に対する反逆罪に問われ、斬首されました。

(ブーリンはブリン、ブリーン、ボレイン、ボレーンと表記されることがありますが、ここでは「ブーリン」としました。)

 

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イングランドヘンリー8世(1531年頃)


マルグリット・ドートリッシュの宮廷でフランス語を学ぶ

アンの父・トマス・ブーリンは語学に堪能で、駐仏大使も務めた外交官でした。

1512年、トマスは、イギリスとの友好促進のため、スペイン領ネーデルラント総督のもとに派遣されます。

当時のネーデルラント総督は、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の娘であり、フィリップ美公の妹、マルグリット(ドイツ語読みではマルガレーテ)・ドートリッシュ(Marguerite d'Autriche)でした。

 

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マルグリット・ドートリッシュ(1480年1月10日ー1530年12月1日)

 

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1477年、ブルゴーニュ公国を治めていたシャルル突進公が戦死し、娘のマリー・ド・ブルゴーニュが遺されました。

シャルル突進公の死で、ブルゴーニュ公国の領土の大半はフランス王国(国王はルイ11世)に併合されてしまい、16世紀初頭にはフランドルと、フランス東部のフランシュ・コンテだけになっていました。(参考:『カール5世とハプスブルク帝国』 ジョセフ・ペレ(著) 塚本哲也(監修) 創元社

マリーはハプスブルク家のマクシミリアン(神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世)と結婚し、フィリップとマルグリットの子宝に恵まれます。

しかし、1482年、マリーは落馬事故が元で死亡。「ブルゴーニュ公」は、ふたりの息子であるフィリップ美公が継承しました。

そのフィリップ美公も1506年に亡くなってしまい、1507年、彼の妹であるマルグリットが父・マクシミリアンによりネーデルラント総督に任命されます。

若くして二人の夫と死別したマルグリットはその後は再婚せず、宮廷で兄の遺児たちを養育します。

 

マルガレーテの宮廷は、当時、ヨーロッパでもっとも文化水準が高く、垂涎の的になっていた。マルガレーテは子どもたちのために、ヨーロッパじゅうからすぐれた学者を集め、「学校」を設けた。トマス・ブーリンは、マルガレーテに、11歳ほどになる次女アンを預かってもらえないか打診し、色よい返事を得る。翌1513年の6月中旬に、トマスはアンをブルゴーニュに送り出した。

(『図説 エリザベス一世』 石井美樹子(著) 河出書房新社 P12) 

(『英国王妃物語』(森護(著) 三省堂書店)によると、アンの生年は1507年となっており、「トマス・ブリーンの長女」ともなっています。) 

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アンはマルグリットの私設学校で、フランス語だけでなく、楽器や舞踏、歌も学びました。 

 

上記の「子どもたち」とは即ちフィリップ美公の遺児たちですが、この長男が、後のスペイン王であり、神聖ローマ皇帝となるカールです。カール(フランス語読みではシャルル)は、曾祖父であるシャルル突進公の名から付けられました。

ちなみに、カールたち兄弟の父親はフィリップ美公ですが、母親はスペインのカトリック両王の娘・ファナです。

 

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神聖ローマ皇帝カール5世 (1500年2月24日ー1558年9月21日)

 

ふたりには6人の子供がありましたが、スペイン生まれのフェルディナント(スペイン語読みではフェルナンド)とカタリナはスペインで育てられました。祖父であるフェルナンド2世は、自分と同じ名を持つフェルナンドを溺愛していました。

 

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カールはフィリップ美公の急死により、ブルゴーニュ公を継承します。

マルグリットは甥であるカールの後見を1515年1月まで務めました。

 

マルガレーテ大公妃はルネサンス期の才媛の一人で、古典の教養も深く、フランス語の詩を書き、ラテン語に堪能だった。美公といわれた兄フィリップの夭折ののちネーデルラントの総督になった彼女は、甥カールと三人の姪に囲まれた楽しい家庭生活を味わうことができた。

『カール五世 ハプスブルク栄光の日々』 江村洋(著) 河出文庫 P16)

 

1508年から1516年にかけては、カンブレー同盟戦争の時代でした。

イタリア半島における権益を巡り、フランス、教皇国、ヴェネツィア共和国が争ったのです。この戦争はスペイン、神聖ローマ帝国イングランドスコットランド、イタリア諸邦といった当時の西欧諸国のほぼ全てを巻き込み、イタリア戦争における最も大規模な戦争の一つとなりました。

マルグリットも外交・政治の才能を発揮し、父の神聖ローマ皇帝マクシミリアン、甥のカールの側に立ち、オーストリアの対フランス、イタリア政策を支援します。 

 

ヘンリー8世スペイン王女・キャサリンカトリック両王の娘)と結婚していたことでもわかるように、イギリスとスペインの関係は悪いものではありませんでした。

 

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ヘンリー8世妃キャサリン・オブ・アラゴン (1487年12月16日ー1536年1月7日)

 

しかし、1514年、両国の関係は悪化、イギリスとフランスが接近します。

父の希望通りに立派な貴婦人となり、王妃キャサリンに仕えることを願ってフランス語を学んでいたアンでしたが、これ以上スペイン領であるマルグリットの宮廷に留まることは出来ませんでした。

アンは1513年にマルグリットのを元を離れ、後のフランソワ1世の妃であるクロード王妃の宮廷に移ります。翌1514年には、フランスでルイ12世とヘンリー8世の妹の婚礼が行われるのでした。

 

フランス王妃クロードの宮廷へ

クロード・ド・フランス(Claude de France)は、フランス王ルイ12世とブルターニュ女公アンヌ・ド・ブルターニュの長女です。

 

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中央がクロード 16世紀の細密画『カトリーヌ・ド・メディシスの時禱書』より 

 

クロードは1499年10月14日に生まれ、1524年7月20日に20代の半ばで亡くなりました。
一時、神聖ローマ皇帝カール5世との婚約の話もありましたが、1514年親戚関係にあるフランソワ(後のフランス国王フランソワ1世)と結婚し、後のアンリ2世をもうけます。

 

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フランソワ1世 (1494年9月12日ー1547年3月31日)

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アンリ2世 (1519年3月31日ー1559年7月10日)

 

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 ルイ12世はクロードを気にかけ、よく彼女の生活するブロワを訪れました。

もっと大きくなったとき、彼女は父に連れられて狩猟に行った。大使アンドレア・ダ・ボルゴからマルグリット・ドートリッシュネーデルラントの女性統治者〕への手紙がそれについて報告している。おそらく鷹狩りだったと思われるが、彼女は従者が跨る馬の後尻に乗せてもらってついて行くことができた。

(『フランス王妃列伝 アンヌ・ド・ブルターニュからマリー=アントワネットまで』 

阿河 雄二郎・嶋中 博章 (編集) 昭和堂 P47)


アンヌ・ド・ブルターニュが1514年1月に亡くなると、同じ年の10月、ルイ12世はイギリスのヘンリー7世の娘・マリー・ダングルテールと再婚します。

 

 

マリー・ダングルテール(1496年3月18日ー1533年6月25日)

 

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イングランド王女マリー・ダングルテール

 

マリー・ダングルテール(Marie d'Angleterre)、英語名はメアリー・テューダー(Mary Tudor)といい、ヘンリー8世の妹です。

イングランドの「9日間女王」ジェーン・グレイは、恋人と再婚した彼女の孫に当たります。

 

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この王女に付き従ってきた侍女のなかに、クロードは気持ちの通じる一人の若い女性と出会うのだが、その女性こそ、のちに数奇な運命を辿るアン・ブーリン〔イギリス王ヘンリ8世の妃。エリザベス1世の母〕だった。

(『フランス王妃列伝 アンヌ・ド・ブルターニュからマリー=アントワネットまで』 P49)

 

どうしても嫡子となる男児を諦め切れずに彼女と結婚したルイ12世ですが、彼は3ヶ月後に亡くなり、フランソワが国王になります。

クロードはフランス王国の王妃となりました。

 

メアリーの去ったフランス宮廷であったが、幼いとはいえ優れた資質を持つアンは宮廷の誰からも可愛がられ、ルイ12世の娘のクロードの保護のもとに教育されることになった。音楽、舞踏、刺繍、そしてラテン語に至るまで、宮廷のマナーとともに磨きをかけたアンは、1522年までの8年のフランス滞在で見違えるほどのレディーに成長した。

(『英国王妃物語』(森護(著) 三省堂書店 P123)

 

 

ルネ・ド・フランス(1510年10月25日ー1574年6月12日)

クロードには妹がひとりいました。ルネ・ド・フランスです。

 

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フェラーラ公妃ルネ・ド・フランス

 

フランス語名はルネ・ド・フランス(Renée de France)、イタリア語名ではレナータ・ディ・フランチア(Renata di Francia)です。

彼女もアン・ブーリンの優しさを感じていた一人でした。

1528年4月、ルネは結婚します。義兄・フランソワ1世からは多額の持参金や年金を贈られました。

相手は、フェラーラ公アルフォンソ1世の跡継ぎエルコレ2世。

彼の母はルクレツィア・ボルジア。ローマ教皇アレクサンデル6世は祖父に、チェーザレ・ボルジアは伯父に当たります。

 

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エルコレ2世・デステ (1508年4月5日ー1559年10月3日)

 

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ルネの宮廷も大変進歩的なものとして知られ、宗教改革で知られるジャン・カルヴァンとも親交がありました。

後の「聖バルテルミーの虐殺」(1572年)では、ルネはユグノーに救いの手を差し伸べることになりました。

 

錦野の会見

クロード王妃の通訳を務めるほど流暢なフランス語を話し、優雅な所作を身につけたアン。彼女の考案したファッションはフランス宮廷の流行にさえなりました。

1520年6月、フランスの、カレー近郊バランゲムの平原で、「錦野の会見」が行われます。(『フランス王妃列伝』では「金襴の野営地」)

1518年の英仏条約を受け、ヘンリー8世とフランソワ1世両君の親交を深めるための会見ですが、

 

その年の春、「金襴の野営地」(camp du drap d'or)の名で知られるフランス王とイギリス王の長々しい会見式典が〔フランドルのカレー近くで〕おこなわれた。それは二人の王のあいだの個人的で持続的な友情を築くことが狙いだった。そのエピソードの一つとして、6月10日、それぞれの王と王妃が取り替わる余興が催された。ちなみにヘンリ8世は、クロードから〔フランス側の〕アルドル城で個人的な夕食会の招待を受けた。彼女は2ヵ月後に出産を控えていた。外国の使臣たちは「彼女の奇怪な肥満」にびっくり仰天した〔彼女の妊娠を知らず、変装していると思ったのである〕。

(『フランス王妃列伝 アンヌ・ド・ブルターニュからマリー=アントワネットまで』 P63)

 

1518年から1521年にかけてフランス駐在大使を務めていたアンの父・トマス・ブーリンは、この会見を実現させるための交渉に当たっていました。

また、マリー・ダングルテール(メアリー・テューダー)のかつての恋人であり、再婚相手となった初代サフォーク公爵チャールズ・ブランドンは、この会見にも随行し、アンがヘンリー8世妃キャサリンの侍女として仕えることができるよう口添えしたといいます。

1522年初頭の頃、アンはイングランドに帰国します。

姉妹のメアリーは一足早くフランス宮廷から帰国しており、ヘンリー8世の愛人となっていました。

 

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メアリー・ブーリン(1499年または1500年頃ー1543年7月19日)

 

この後アンはキャサリン王妃の侍女として出仕するようになり、イングランドを継ぐ嫡子を望むヘンリー8世から求愛されます。

1533年1月25日、彼女はヘンリー8世とひそかに結婚。 

その年の9月、後のイングランド女王となるエリザベスが誕生しました。

 

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テューダー朝第5代の君主 エリザベス1世

1536年、娘メアリー(後のメアリー1世)と会うことも出来ないまま、キャサリン・オブ・アラゴンは失意のうちに病死します。

男児ではなく女児を産んだことを「神の裁きを受けた」と言われ、王の寵愛を失ったアンは斬首されるのですが、あまり語られないネーデルラントやフランス留学時代のことを考えると、語学の才に恵まれた、機知に富んだ女性だったのではないかと思います。

 

 

 

 

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