hanna_and_art’s blog

文化史本好きが、「文化史系本のガイド」を目指します。美術、世界史と絡んだ様々な文化史関連本をご紹介します。

アウグスト弱王が妃に贈った、マイセンの「枯れない花」・スノーボール

アウグスト3世と妃マリア・ヨーゼファ 

怪力の持ち主で、庶子の数が300人以上いたという「アウグスト強王」、アウグスト二世(1670-1733)。
東洋磁器の収集家としても大変有名です。

マイセンのアルブレヒト城に「錬金術師」ヨハン・フリードリッヒ・ベトガーを幽閉し、白磁の研究に当たらせたのもアウグスト強王でした。

 

父は(様々な意味で)「強王」と呼ばれましたが、跡継ぎ息子であるフリードリッヒ・アウグスト・フォン・ザクセンポーランド王としては、アウグスト3世サス August III Sas)(ザクセン選帝侯としては、フリードリヒ・アウグスト2世(Friedrich August II.)は陰で、「アウグスト弱王」などと呼ばれていたそうです。

政治にはあまり関心は無かったご様子。

 

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アウグスト3世サス  1696年10月17日 - 1763年10月5日

 

 アウグスト3世は父と違い、磁器には興味がなく、絵画収集に熱心でした。

 

アウグスト三世は、とくに16世紀のイタリア・ルネサンス絵画の巨匠、17世紀のオランダ・バロック絵画の巨匠作品に質の高いコレクションを形成し、きわめて高い評価を受けている。その一方で彼は、同時代のイタリアやドイツの画家たちをドレスデンの宮廷に招聘するなど、同時代の芸術保護にも積極的であった。

(『ヨーロッパ宮廷陶磁の世界』 前田正明・櫻庭美咲(著) 角川選書 P133)

 

1719年8月、彼は、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の娘であるマリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ(Maria Josepha von Österreich)と結婚します。

(ヨーゼフ1世と、マリア・テレジアの父・カール6世は兄弟。マリア・テレジアは従妹に当たります。)

妻となったマリア・ヨーゼファにとってアウグスト3世は良き夫で、家庭も円満。

二人の間には多くの子供が生まれました。

 

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マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ 1699年12月8日 - 1757年11月17日

 

アウグスト三世の、「王妃に枯れない花を贈りたい」という命令により、磁器の花、美しい「スノーボール」が生まれました。

マイセンの食器や花瓶に見られる小花の装飾です。

1739年のことでした。

 

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可憐なスノーボールで飾られた壺 マイセン動物園展(2019-21)

 

 

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アウグスト3世とマリア・ヨーゼファ 1750年頃 ミニアテュア 作者不明



オーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)

1740年、神聖ローマ皇帝カール6世が亡くなります。

カール6世には後継となる男子がいませんでした。

いるのは大公女・マリア・テレジア(当時23歳)。政治経験もなく、今また次の子供を妊娠中でした。

 

カール6世が娘のマリア・テレジアを後継者にするべく奔走したにも関わらず、承認したことなど忘れたかのように、マリア・テレジアの相続に対し、フランス王、バイエルンザクセン王が反対の声を上げます。

バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトの妃はマリア・アマーリエといい、神聖ローマ皇帝の娘であり、マリア・ヨーゼファの妹でした。

 

しかも、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトが帝位を要求した。彼はカール六世の先代であるヨーゼフ一世の娘を妻にしていたのだ。ミュンヒェンの政府は二百年前にヴィッテルスバッハ家とハプスブルク家の間でとり交わされた証文を盾にとった。1546年のこの古文書には、ハプスブルク家が男子の相続人を失った時にはバイエルン皇位を相続するもの、と定められていたのである。

(『フリードリヒ大王 啓蒙君主のペンと剣』 飯塚信雄(著) 中公新書1152)

 

更に、プロイセンフリードリヒ二世(フリードリヒ大王)はいち早くオーストリア領シュレージエンに侵攻し、武力で奪い取ってしまいます。

オーストリアを狙う敵たちを相手に、マリア・テレジアはこの難局を乗り切らねばなりませんでした。

 

 

オーストリアザクセン戦争

1741年、ザクセン選帝侯兼ポーランド国王アウグスト3世は、ハプスブルク家領の相続権を主張。ボヘミアに侵入します。

妃マリア・ヨーゼファはヨーゼフ1世の娘でしたから、彼女にも相続の資格がある、との言い分でした。

その後和平交渉によりザクセン軍は撤退するのですが、

 

  そう、大王の犯罪にザクセン選帝侯国も加担したのである!ちなみにこのとき、あのアウグスト強健侯はすでになく、同名の息子アウグストが選帝侯かつポーランド王に納まっていた。

彼の妃はハプスブルク家から輿入れしたマリア・ヨーゼファである。彼女は実家ハプスブルクに弓引く婚家の決断を支持した。なぜならうまくいけば自分が従妹のマリア・テレジアの代わりに皇妃になれるのだ!

(『神聖ローマ帝国』 菊池良生(著) 河出書房新社 P94-95)

 

しかし、マリア・ヨーゼファが狙っていた?皇妃(皇帝妃)の位は、バイエルン選帝侯妃である妹に奪われてしまいます。

1742年、 バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトは、神聖ローマ皇帝カール7世として戴冠したのでした。

 

その3年後の1745年、カール7世が死去。

  カール7世が死ぬと、フランスは次の皇帝にザクセン選帝侯アウグスト3世を推した。しかしアウグストは、父の強健侯とは似ても似つかぬ無為の人であった。覇気は毛筋にも感じられない。政治は寵臣に任せきりである。その寵臣がこの継承戦争に腰砕けになれば、ザクセン選帝侯もたちまちのうちにそうなる。このフランスの申し出に、一瞬心ときめいたのは選帝侯妃マリア・ヨーゼファである。しかし、夫の無気力が彼女の皇妃への道を鎖(とざ)してしまった。

(『神聖ローマ帝国』 菊池良生(著) 河出書房新社 P96)

 

プロイセンに奪われたシュレージエンは戻って来ませんでしたが、神聖ローマ帝国の皇帝位はマリア・テレジアの元に戻って来ました。

1745年、彼女の愛する夫であるフランツ・シュテファンが神聖ローマ皇帝フランツ1世として即位します。

  

皇帝の権限は事実上マリア・テレジアが行使したため、一般に「女帝」マリア・テレジアといわれるが、彼女は公式には女帝ではなく、皇帝妃であったのである。

(『ハプスブルク帝国』 加藤雅彦 河出書房新社 P46-47)

 

 

「アウグスト3世夫妻の娘」は誰の母親になったか

ジャン=マルク・ナティエが描く優美な女性の肖像画

こちらの女性は、夫妻の娘のひとりです。

 

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マリア・ヨーゼファ・カロリーナ・エレオノール・フランツィスカ・クサヴェリア・フォン・ポーレン・ウント・ザクセン 1731年11月4日 - 1767年3月13日

 

母親マリア・ヨーゼファと同名の彼女のフランス語名は、マリー=ジョゼフ・カロリーヌ・エレオノール・フランソワーズ・グザヴィエール・ド・サクス。

嫁いだ後、ある有名な人物の母となりました。

 

その人物とは。

 

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ルイ16世

フランス王。

マリア・テレジアの娘、オーストリア皇女・マリー・アントワネットの夫です。

  

 

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マリー・アントワネット

 

王族同士の結婚では、いとこや、またいとこ同士というのはよくあることです。

しかし、こうした巡り合わせというのは大変面白いですね。

 

 マリア・テレジアに関する記事

hanna-and-art.hatenablog.com

 

マイセンに関連する記事 

hanna-and-art.hatenablog.com

 

マリー・アントワネットに関連する記事

hanna-and-art.hatenablog.com

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yahooから移行した記事 

hanna-gemutlichkeit.hatenablog.com

 

 

主な参考図書

 

本文内の画像はwikipedia(public domain)のものを使用しています。(マイセン動物園展を除く)

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